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むさぼりの罪

      本日の聖句 出エジプト記20章17節    説教タイトル 10番目の戒律 むさぼりの罪  今回の日本語説教は英語の説教の翻訳版です。普段は自分のメッセージを日本語に翻訳しませんが、前回の教会学校で Covetousness (むさぼり) について話が出ましたので、調べていましたところ、むかしの説教が見つかりました。自画自賛ですがなかなかいいことを言っていました。そこで翻訳するようにと示されました。英語版のほしい方はお申し出ください。翻訳ではない恵みがあります。基本的にオリジナルの読める方は英語版をお勧めしています。 イントロダクション  2年前に友人の出産でニューポートビーチの病院へ行きました。そこで車を病院の駐車場に入れたのですが、周りにはスーパーカーばかりが停まっていました。ポルシェカレラコンバーチブル、メルセデスベンツ S600 そしてバレーパーキングには堂々とロールスロイス社のファントムが停車してあるのです。千恵子に「ここは病院というよりまるで高級ホテルだね」と言って病院に入りました。中もすごい豪華で、私たちが行っているカイザー病院とは格の違いを感じました。帰りにあのロースルロイス(右の写真)見た?と聞いたら「見てないし興味もないわ」とそっけない返事、豪華客船のような車を見逃すはずがないのにと不思議で仕方ありませんでした。  彼女は人のものに興味を持たない、またジェラシーを感じないタイプです。私は逆にフリーウエイで BMW が走っていたら必ず運転手をチェックします。もし自分より年上のおじさんだったら、「頑張った人なんだなー」と思います。しかし運転手が自分より年下だったら、「なぜあんな若造が BMW に乗れるんだ?人生なんて不公平なんだ」と心の中で嫉妬する自分がいます。学生らしき男がポルシャ 911 に乗っていたら無性に腹が立ちます。親のスネをかじってと勝手に決めつける自分がいます。つまらないことで、牧師が嫉妬するのですね。たぶん私だけでしょう。他の牧師は人間ができているか、本心を言えない立場なのか。ただ単に車に興味がないのかもしれません。  この感覚は教会同士でもありました。私の夢はこの小さな教会が礼拝出席者でいっぱいになり、「楠先生もう入る場所がありませんどうしましょう」という会話をす...

マタイ7章 裁いてはいけない理由

        マタイの福音書 7章1-7節        説教主題 「裁いてはいけません」     内陸帝国￾インランドエンパイヤ￿日本人教会 楠 秀樹牧師 1 さばいてはいけません。さばかれないためです。2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 1)いったいキリストはだれに対して、裁いてはいけないと話しているのでしょうか?  未信者ではなくクリスチャンに対して語っています。3節にある兄弟達という語り口がそれを示しています。教会内での問題が浮き彫りにされています。5節では厳しく裁くものを偽善者と指摘しました。 2)ではいったいどうしてこの話をキリストは信徒らにしたのでしょう?  最近は70年代に盛んであったecumenical movement(世界教会主義運動)が再燃して、違う教派や教団または宗教(イスラム教 ヒンズー教 仏教)とも一致することが世界の平和に貢献する正しいクリスチャンの心構えというムーブメントが出てきています。多種多様の神学論理でお互いに隔たりを持つのは大人げないと言うことでしょう。しかしこの傾向は神からでたものではありません。もしそうであれば16世紀にローマカトリックから枝分かれしたリフォーム運動そのものが無駄なことになります。400年前に分かれた教派とまた一緒になることが本当に神の計画でしょうか?実際にはエキュメニカル運動は神の意志とは正反対の社会現象です。  エキュメニカル運動はお互いを裁かないための働きであると言われています。しかし私たち...

人はどうして人を裁くのか

ローマ書2章1節ー6節  説教タイトル 「人はどうして人を裁くのか?」 インランドエンパイヤ内陸帝国日本人教会牧師 楠 秀樹 ウメともも 以前飼っていた最初の犬の名前がさくら、そこでその後から家族になった二匹の猫の名前が、ウメとももになりました。今年で14歳になります。しかしこの猫たち一度も病気をしたことがありません。本当に丈夫な猫です。その代わりに先月4年飼っていた犬ビリーが心臓病でなくなりました。この犬はレスキュー犬で、うちに来たときは全身あざとただれものでたいへん苦労しました。目も見えず耳も聞こえない老犬でした。しかし私のうちに来て平和な日々を過ごすことができたのでしょう。静かに眠るように死んでいきました。この犬は病院を行き来するたいへん手のかかる犬だったので、14年間病気をしない皆勤賞の猫達は本当に親孝行です。 ウメとももを見ていると、神様の不思議を見ているようです。いるのかいないのか解らないウメと、いつもご飯をせがむモモ、対照的な猫たちに毎日いやされて過ごしています。彼らがあとどのくらい皆勤賞を続けられるのか心配ですが、食べ物にも気をつけて最近は、無添加で無農薬のねこめしをあげています。最初は気に入らなかった猫らも、今はなれて食べています。不味いのであればかわいそうですが、彼らには健康で長生きしてほしいと願ってのことです。  人間にも動物にも寿命があるのはどうしてか知っていますか?子供に「どうして人は死ぬの」と聞かれたときにあなたは答えられますか?聖書からその答えを出すことができます。  人間が最初に造られたときには、寿命はなく永遠の命を持って造られました。しかしあることを境にその命にリミットが課されてしまいました。それがすべての命あるものに寿命を与えたことと関係してきます。 始まりがあるものには終わりがあります。すべて創造されたものは、創造されたときから死に向かっています。宇宙も地球も人間も動物も昆虫も寿命があります。ハエの寿命は17日、猫は16年、人間は日本人が平均82年アメリカ人は78年です。どうして私たちは死ぬのでしょうか?考えたことがありますか? 聖書には最初に造られた人間アダムとイブの話があります。おとぎ話ではありません。実在した人物で彼らがいるから私たちが今ここにいます。ユダヤ教歴では今年は5773年です。つま...

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弱さに現れる神の力

2012年月16日 日曜日礼拝説教 主題聖句 第2コリント人の手紙12章7-12節 説教題 弱さに現れる神の力 先日エンジェルスの野球に行きました。オークランドと最後のペナントレース、ワイルドカード出場権をこの2チームで争っているのにもかかわらず3連敗をして今期は絶望的です。唯一いた日本人ピッチャー元巨人軍の高橋投手もファーム落ちになり、日本人ファンにとっても残念な年です。また野球に行く前に友人宅によりました。アズサパシフィック大学教授Chamberlain教授宅です。そこで3歳になるアイゼヤ君が私のことをMr.先生と呼ぶんです。これはChamberlain教授が私を「先生」と呼んでいるためで、子供は私の名前は先生であるから、Mrを頭につけてPoliteに呼んだ結果がMr.先生となりました。本当にかわいいので思わず微笑みました。  クリスチャン大学の大学教授に先生と呼ばれるこのわたしはいったい何者なのでしょう? 大学教授から先生とよばれていい気になっている姿は、サタンが高慢になってるのとだぶります。高慢になるのは罪人ですから簡単ですが、遜ることはなかなかできません。自分が本当は何者かを理解すればHumble になれます。このような聖書の真理を教える立場の私が、こどもにもMr先生と呼ばれているのは皮肉です。人間は自分から謙遜できないので、パウロのように棘が与えられることを学びました。しかもその棘はサタンからの使者(偽教師)でることを聖書から学びました。この偽教師または偽預言者の共通する態度が、「私は極めている」と自分で自分を持ち上げている人です。つまりMr先生です。Mr.先生はすこし危ない人ですね。  ここで聖書を見てゆきましょう。第2コリント12章7-10節 テーマはPower in Weakness(弱さに現れる神の力)聖書で「恵み」という言葉は150回使われています。この恵みの意味は?神からのえこひいきという表現、つまり神から恵みを与えられるに値しないものが、恵みを受けると言う意味があります。罪人でありながら神からの恵みを一方的に受けるのがクリスチャンです。罪人のままでも神が働くことは本当に恵みです。恵みは自分が弱いときに働く力です。キリストを知るものに働く聖霊の力は、人間力が弱くなり、神によりすがるほか方法がないときに働く力です。 パウロは...

神との関係

私たちの普段の生活を脅かす出来事が最近多く起きています。 自然災害が世界中で起きています。 東日本大地震、アラバマの竜巻、メキシコでの地震、ミシシッピー川の洪水、ABCニュースでは、歯車がかみ合っていないという表現をしていました。まさしく何かが狂いはじめているようです。 政治的にはオサマビンラディンがアメリカの海軍特殊部隊(SEALS)により殺害されました。リビアではカダフィ大佐が自国民を爆撃しています。北朝鮮では核兵器を造ろうとしてプルトニュームを集めています。イラク、アフガニスタン、イスラエル、シリアでは戦争が続いています。誰か止めなければ重大な結果を招くでしょう。 世界的に政治的にも歯車が合っていません。 経済的にはどうでしょうか?アメリカは100年に一度の不景気でカリフォルニアの失業率は10%を超えています。日本も長引く不況で経済的に光が見えていません。大卒の就職率が戦後最低でした。仕事があることだけで恵みを感じるこのごろです。 霊的にはどうでしょうか?5月21日にラプチャー(携挙)キリストが戻ってくるという偽予言者が現れています。もちろんキリストの再臨は誰もいつかは解りません。解らないことを予言とするのが罪人です。騙されないようにして下さい。 歯車がかみ合わないのは、地球の自然だけではありません。  人間関係でもかみ合っていないのが現代の家族です。あなたはあなたの夫または妻とまたは子供と何の隔たりもなく会話できますか?あなたの仕事関係の方と心おきなく自分の意見を言えますか?近所の方と境界線を越えて交わっていますか? 教会の信徒同士でも、不信感をもっていることがありませんか?あなたの子供はあなたを心から信頼していますか?  人間関係もかみ合っていないので、関係にひずみが起きるまたは関係が冷えてくる経験をしていませんか? この関係の改善または修復はどのようにしてできるのでしょうか?本日は関係改善策を聖書から見てゆきます。 マタイの福音書18書24節~35節 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 25) しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 26) そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返...

エリヤの訓練

インランドエンパイヤ￾内陸帝国￿日本人教会 2012年8月12日 オリンピックに思うこと  木曜日になでしこJapanとアメリカチームの決勝戦がありました。国籍はアメリカ人ですが、日本を応援していました。この試合で一番感動したのは、日本が負けたことです。今まで見たサッカーの試合で初めて、イエローカードが一枚しかでなかったのです。この2つの国は、スポーツマンシップにのっとりほんとうにフェアープレイを90分間しました。だから負けても感動できました。凄いチームを日本は持っています。負けていると普通はフラストレーションからフィジカルになりがちなサッカーの試合ですが、なでしこJapanはその名の通り、大和なでしこを代表するチームでした。ですからすがすがしく負けてくれました。負け試合で感動したのは初めてです。  オリンピックもサッカーの試合しか見ない私ですが、どの国の試合を見ても感動します。それは一つのことに打ち込んでいる姿が美しいからでしょう。また自分にはできない身体能力をもっているので、それをうらやましくも思い、また苦しい練習の結果見られるゴールがすばらしいから感動します。特に個人的にはミドルシュートが好きです。ピッチからゴールに突き刺さるようにはいるゴールを見るとスッキリします。最近はサッカーがマイブームとなっています。  聖書でも普段の訓練が本番で生かされます。 第一列王記18章  18章で旧約聖書に出てくるエリヤは偶像礼拝するバアル礼拝の予言者450人と戦い勝利得ました。バアル礼拝をする祭壇には火は降りてきませんでした。しかしエリヤの動物の生け贄は多くの水をかけられながら完全に燃え尽きる天からの火で焼き尽くされてしまいました。またバアルの予言者は全員殺されました。450対1の試練に打ち勝った瞬間です。 第一列王記18章23節彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あな...

キリスト道

キリスト教からキリスト道へ その1 華道,茶道、柔道、日本の文化を語るときに、「道」という言葉で、日本人の文化を示しました。日本人は物事を極めるときに、教えから、道へと、その表現方法を変えていきました。たかがお茶の飲み方、しかしそれを教わることで、日本人の文化の礎である礼儀、謙遜、情緒、を 茶道という完成された日本文化で示し築きあげてきました。たかがお茶を飲む仕草、されどお茶への深い洞察力、心の現し方が問われるという文化を茶道は示しました。この独特の完成された日本特有の文化がわからないままで、他文化の宗教であるキリスト教を提供しても、その他文化で完成された宗教を受け入れることを日本人はできなかったのではないでしょか? キリスト教が日本人に受け入れられていない原因(0.2%の布教率)は、外国の宣教師が持ち込んだ宗教的価値観が、それまで日本ではぐくまれていた大和文化と著しく異なっていたためで、日本人はこの外来宗教に「No」といったのです。普段はすぐにNoといわない日本人をここまで頑なに否定させたキリスト教の間違いは何だったのでしょうか?これを分析せずに、キリスト教の布教はできません。しかし日本に来た宣教師は、戦後そのありあまる経済力で、何とかキリスト教を彼らの概念のままで伝道しようとしました。またその姿勢は戦後66年変えませんでした。キリスト教を持ってきた側は、持ち込まれる側の文化を理解するどころか、日本文化を否定し国民の信じる宗教を偶像礼拝として切り捨ててしまったのです。この上から目線の宣教態度(プライド)が問題ですが、宣教師は言葉の問題も文化の違いも受け入れることをしませんでした。この言葉の弊害と伝える側の意識のはき違いが、現在のキリスト教布教率0.2%の原因ではないかと考えます。外国の宣教師が日本文化を文化として受け入れていれば、キリスト教はもう少しちがう姿で受け入れられていたのではないでしょうか。片言の日本語を話す宣教師が、日本人の心を捕らえることはできませんでした。根本的な日本宣教への「甘え」が外国人宣教師にあったのです。片言宣教師は片言の福音を提供したのです。それは日本人の優しさがもたらした結果でもあります。外国人だから日本語は話せないのが当たり前、この思いやりに甘えた結果が戦後の片言宣教師を作り上げ、キリスト教を片言宣教師の...

ラプチャーってなに?

2012年 8月5日 日曜日礼拝説教 インランドエンパイヤ￾内陸帝国￿日本人教会 牧師 楠 秀樹 聖句 第一テサロニケ4章12-18節 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 説教題 「キリストとともに戻るとは?」 先週の聖書研究で、ノンクリスチャンのかたが、キリストが戻ってくるときに、私たちはどうなるのですか?という質問をされました。確かにラプチャー(日本語では携挙)を理解しないと、この質問には答えられません。そこで聖書ではどのようにキリストの再臨を示しているのかを見てゆきます。 13節のすでに眠っている人とは、聖書的な表現で亡くなった人を現すときに使われます。ここでは死んだ人はすぐに天に引き上げられています。一部のキリスト教の異端ではソウルスリープ、キリストの再臨まで魂は眠っていると考えられていますが、聖書にはない概念です。このソウルスリープはすでに眠りについた人をそのまま直訳して間違いを起こしたので、原語のギリシャ語にある意味、眠っている=すでに死んでいる を理解していません。日本人には比較的わかりやすい表現で、永眠という形で 眠る=死 を文化的に理解できます。しかしアメリカ人にはわかりにくい表現のようです。 人間の魂は死ぬと同時に天に行きます。これは十字架にキリストと一緒についた強盗の一人がキリストを神と信じました。そこでキリストは「今日あなたは私とともにパラダイスにいる」(ルカ書23章43節)と話されたことでも証明できます。イエスは私が地上に帰ってくるまで寝ていなさい...

予定説と自由意志

2012年7月29日 日曜日礼拝説教  説教タイトル Predestination (予定説)と自由意志Free-will 聖句ローマ書9章 インランドエンパイヤ日本人教会牧師 楠 秀樹 今日は質問からメッセージを始めます。 クリスチャンになるのは神に選ばれたから?それとも自分の意志で神を選んだから? 2000年間この答えを出すために、聖書学者が論争してきましたが、答えは出すことができません。従ってこの40分の説教で答えがでたら奇蹟です。ただバプテストの牧師としては、聖書に基づくなんらかの答えを出さないと、私の首が危なくなる?アメリカでも牧師不足なので、そう簡単に首は飛ばないでしょうが、楠なりの答えを出すことにしましょう。それで首がつながるでしょうか?残念がる人もいるかもしれません。 さてこの2000年前からの質問の基本的な見方をここで示します。 私たちは神に選ばれてクリスチャンとなりました。これは罪人であるままで、受け入れられ神の子となる権利を、イエスキリストの十字架の贖いによって恵みの内に与えられたと理解します。神の選びはユダヤ人の父アブラハムを通して明確に示されました。カルディア国の一市民であったアブラハムを選んで、神の民ユダヤ人とする約束をしたのが、YHWH(アドナイと発音する)の神でした。 これはユダヤ人が一方的に神から選ばれたことを示します。そこでアブラハムは神の啓示を信じ、信仰を持って生まれ故郷ウルを離れ、まだ見ぬ約束の地(現イスラエル)に向かい旅立ちます。これが信仰を持って神に従うひな形となりました。(創世記11章) 21世紀の私たちも、まだ見ぬ天国を目指して、この地上を旅をしています。目に見えない神を信じ、目に見えない天国を目指し信仰生活をしています。神に選ばれたので、クリスチャンになり、人生を神と共に生きるというひな形がここにあります。  神がクリスチャンを選んだとすると、クリスチャンでない人は、地獄に行くように神がされたと考える方が出てきます。つまり神に選ばれないで裁きを受けると考えます。ところが、神は誰一人として滅びることを願っていないと聖書にあります。その証拠がキリストの十字架での死です。キリストはすべての人の罪のために十字架にかかりました。選ばれたものだけではありません。(第2コ...

クリスチャン教会の低迷原因

1945年8月15日 中国大連市で帝国陸軍の通信兵をしていた父の元に一通のテレグラムが届いた。中国で最初にそのニュースを受け取った彼はそのニュースの信憑性を疑った。そこに書かれていたのは「日本国は無条件降伏を条件に戦争の終結する。直ちに武装解除して、帰国の準備をされたし」父は部下たちにこのニュースを伝えるべきかどうかを迷ったという。それは自分で日本国の敗戦を消化できていなかったからだろう。しかし彼の心配をよそに、無条件降伏のニュースは中国のメディアを通して中国中に流された。心配する混乱もなく父はそのニュースを楠隊部下たちに伝えた。そのころ特殊爆弾が広島と長崎に落とされたというニュースも同時に流された。昭和天皇の言葉通り忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、戦争を終わらせる決断をした。 この話を聞いたのは私が若干8歳の時、当時の私は父の心の動きを知るよしもなかった。 この後にポツダム宣言をサンフランシスコで調印、日本は正式に戦争の責任を全面的にまた一方的に無条件で受け入れることになった。アメリカは敗戦後、廃墟と化した日本に多くの物資と人道的支援を始めた。特筆することはマッカーサー元帥は、日本人の精神的な柱であった天皇裕仁信仰が崩壊した後の霊的バキュームを心配し、できるだけ多くのキリスト教宣教師の派遣をアメリカのキリスト教諸教会に嘆願した。アメリカ政府の方針として、キリスト教による霊的復興をはかったのだ。しかしこれが後に大きな霊的足かせとなっていった。戦勝国の宣教師として入ってきた彼らは物質的に日本国の復興をサポートしたが、霊的必要性を満たすことができなかった。どうして宣教師らはキリスト教によるリバイバルを日本で起こすことができなかったのだろうか? たぶん私は「Pride」がそこにあったのではないかと思う。 戦勝国のキリスト教が敗戦国の神道日本を救うという「Pride」があった。キリストの福音による救いではなく、アメリカの物質主義を運んできたのが宣教師だった。したがって物質的にすべてが欠乏していた1950年代は宣教師のいうことに耳を傾けていた日本人も、1960年に入り経済的に安定してくると、宣教師に耳を傾ける必要性がなくなっていったのである。キリスト教でなくても日本は復旧できる。しかもそれがもっと如実に社会的現象として現れたのが、1964年...

クリスチャン光線’

クリスチャン光線 聖霊の賜物の一つに「霊を見分ける力」があります。霊を見分けると言うと霊媒師みたいな表現でキリスト教らしくないですが、悪霊を見分けるというのではありません。そうなるとハリウッドのエクソシストのようです。ちなみにエクソシストはカトリック教会の宗教行事で、プロテスタント教会(福音派)では行われていません。人間が霊にとりつかれるという概念が聖書の時代とは違うからです。当時2000年前はADHDやてんかんは悪霊の仕業と勘違いして、霊を払うことをしていたようです。しかし21世紀に入って、これらの現象が脳の疾患やDNAの傷が原因であることが解ってきました。カトリック教会でもだんだんと人間の精神的な構造が解り、エクソシストをする回数は減っています。それでも未開地に行けば霊媒師がいるので、彼らのために取りなしの祈りはするようです。 さて私の言う霊を見分ける力とは、聖霊の働きのうちにある賜物を指します。 霊の賜物なので与えられている人といない人がクリスチャンでもいます。霊の動きに敏感な人は、その人の霊的な必要がカウンセリングをしなくても解るらしいのです。私にはない賜物ですが、牧師にはほしい賜物のひとつです。そんな鈍感な私もある思いが時々与えられます。それは人と出会った時に感じる、心にいるキリストの霊を感じる時です。クリスチャンと話していると感じるものがあります。この人の中にキリストが生きているという直感です。これをわたしはクリスチャン光線と勝手に呼んでいます。 今回家を直すのにいろいろな人と出会う機会がありました。そのなかで電話でも対面しても、その人の中にキリストがいるという確信、クリスチャン光線を発している人と出会うのです。その確信を与えられると、心に平安が与えられます。昔のことわざで、ツーカーの仲、言葉を交わさなくても相手の心理が解る現象のことです。 またその反対に、クリスチャンのミーティングや初対面のひとで、紹介される時に「私はクリスチャンです」という方と出会います。しかしこの自称クリスチャンから、聖霊の臨在を感じない時があります。19年前に中国に行った時に父の葬儀を大連市でしました。その時に共産主義の中国政府側から準備されたのは20名のクワイヤーと牧師2人がいました。彼らと名刺を交換しながら思ったことは、クワイヤーの人々とこの牧師ら...

English Message

What can Christians do in TIMES OF TROUBLE?” Pastor Hideki Kusunoki Japanese Christian Church of the Inland Empire TODAY’S TEXT : James 5:13-20  Our church is small but when it comes to problems we have countless issues before us.  Who doesn’t?  Just look around us.  There are health issues, financial issues, relationship issues, communication issues, leadership issues, Sunday school issues, pastoral issues, etc.  What is your real concern for this week?  I felt like I had so many that I just could not count them anymore. Being a Christian does not mean we are trouble free. However, the Christian has an advantage as a believer in God who controls the universe.  We have confidence in God for whatever happens in and around our lives.  It is either God’s plan or God’s approved test.  We have this life on earth, and each day challenges come to our life. By trusting in God through these challenges, we can get closer to God.  It is our...
インランドエンパイヤ日本人教会 日曜日 説教タイトル 互いに許し合う心 主任牧師 楠 秀樹 主題聖句 コロサイ人の手紙3章13-15節 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。 最近牧師として質問をされました。さてその質問は以下のおとりでした。 「罪の告白がなければ人間は救われない」のでしょう? この質問は、「先生、罪の告白をしなければクリスチャンではないのですか?」 が正しい質問形態です。 ここでこの方は、罪の告白なしには救われない?[永遠の命を受けるに値しない]と断定しています。はたして罪の告白で、永遠の命を受けることができるのでしょうか?聖書を通して検証してみたいと思います。 答えから先に示すとこうです。罪の告白による救いを示した聖句は見つかりません。 人間の救いはキリストの十字架の贖いによるものです。キリストが十字架に自分の罪のために架かったと信じ告白すればクリスチャンです。 つまり罪の告白[人間の行い]ではなく、キリストの示した恵みにより救われます。 エペソ書2章8-9節 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 わたし達が救われるのはわたし達の行い[罪の告白を含む]ではありません。告白をすることは間違いではありません。しかし告白で救われるのではなく、あくまでもクリスチャンになるのは、神の一方的な恵みによるのです。クリスチャンになるための告白があるとすれば、「私はキリストを主として救世主として信じます。」という信仰告白であり罪の告白ではクリスチャンにはなれません。 世界一有名な聖書の箇所は ヨハネ3章16節-17節 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。...