インランドエンパイヤ日本人教会
日曜日 説教タイトル 互いに許し合う心
主任牧師 楠 秀樹
主題聖句 コロサイ人の手紙3章13-15節
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
最近牧師として質問をされました。さてその質問は以下のおとりでした。
「罪の告白がなければ人間は救われない」のでしょう?
この質問は、「先生、罪の告白をしなければクリスチャンではないのですか?」
が正しい質問形態です。
ここでこの方は、罪の告白なしには救われない?[永遠の命を受けるに値しない]と断定しています。はたして罪の告白で、永遠の命を受けることができるのでしょうか?聖書を通して検証してみたいと思います。
答えから先に示すとこうです。罪の告白による救いを示した聖句は見つかりません。
人間の救いはキリストの十字架の贖いによるものです。キリストが十字架に自分の罪のために架かったと信じ告白すればクリスチャンです。
つまり罪の告白[人間の行い]ではなく、キリストの示した恵みにより救われます。
エペソ書2章8-9節 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
わたし達が救われるのはわたし達の行い[罪の告白を含む]ではありません。告白をすることは間違いではありません。しかし告白で救われるのではなく、あくまでもクリスチャンになるのは、神の一方的な恵みによるのです。クリスチャンになるための告白があるとすれば、「私はキリストを主として救世主として信じます。」という信仰告白であり罪の告白ではクリスチャンにはなれません。
世界一有名な聖書の箇所は ヨハネ3章16節-17節 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
この聖句も共通していることは、救われるための条件は一つだけです。キリストを信じる信仰で救われます。
それではクリスチャンになるのに罪の告白は必要ないのでしょうか?
罪の告白はイエスを受け入れキリストを信じるときにできる祈りです。キリストを信じるときにわたし達は罪を意識します。従ってキリストを信じる信仰を持つときの結果として「罪の告白」があります。罪の告白をしてクリスチャンになるのではなく、クリスチャンになりキリストを主として告白するので罪の告白をします。順番はキリストを信じる信仰告白が先です。その後に罪の告白がついてきます。罪の告白という行いで救われるのではなく、神の恵み[キリスト信仰]で救われるのが人間だからです。
一度罪の告白をすればOKでしょうか?キリストにおける救いは賜物です。一度受け取ったギフトを返せとは神は言いません。クリスチャンはキリストを心に受け入れていますので、永遠の命がその方にとどまることは間違いありません。しかし日々の生活で罪を犯すのもクリスチャンです。わたし達の罪は許されていますが、罪の性格は残っています。クリスチャンでも意見が合わないと対立が起こります。日々の生活で罪を犯すのが人間です。これはクリスチャンが人間なので犯します。神はその動機をご存知です。神の愛にリミットはないので、神は罪を犯す人間を無限に許します。許さないのは人間です。なにか相手から攻撃されればかならす仕返しを考えます。
忠臣蔵を皆さんはご存知でしょう。赤穂浪士四十七士(大石良雄)が吉良上野介へ復讐するために、元禄15年[1702年]12月14日 討入りを敢行する歴史的実話です。日本人はこの話が大好きです。日本人にとって復讐は名誉であり正義です。しかしキリスト教では仇は神が討つものです。
ローマ書12章19節 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
あなたを傷つけた者は神が復讐するとあります。わたし達の傷はわたし達が重荷を追い続ける限り癒されません。復讐をたくらむものに癒しの働きはありません。許すこととは、相手に傷つけられたことを否定することではありません。許すのは神にその痛みを委ねるということです。神の判断に任せるという態度です。そして許すものが癒されます。
どうして許すのでしょうか?
あなたの罪は誰によって許されたか? 神があなたの罪を許したように、あなたも人の罪を許すように聖書が語っています
憤りを持つことは、あなたの人生にとって益にならない。怒る人は気持ちがキリストに向いていない。怒る対象に目が向きます。それがサタンの罠です
将来あなたも許しが必要になる。立場が逆になることがあります。今の寛容は後で大きな恵みになります。
マタイの5章7節 「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」
相手を許さないと、ますます自分の心に憤りを感じます。
詩篇147 「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」
ゆする心はあなたに関係を改善するきっかけを与えます。傷は癒されるのに時間がかかります。深い傷であれば、癒される時間もかかります。体の傷と同じで、心の傷もふかさによって癒される時間が違います。癒しには時間とプロセスが必要です
イエスの示したいやしの方法とは
神は交わりを用いて癒される ヘブル10章25節
神は祈りを用いて癒される 使徒3章1節―5節
神は肉体の癒しを持って、心を癒される ヨハネ9章35節 目を癒された時にイエスを礼拝をしている。肉体の癒しが霊的な癒しに変わる時
神は教会に参加する人を用いて癒される
ヨハネ13章34節 お互いを愛する信仰
神は完全に癒すお方です。しかし傷は残ります。この傷によって、神の栄光が現れます。どれだけ深い傷を神が癒してくださったかが解るからです。神の恵みにより癒されています。すべての癒しは神から来ています。神は愛のお方ですから癒されます。神のように許し、神の愛に委ね、神とともに歩むのがクリスチャンです。傷は残りますが、わたし達が焦点を合わせなければいけないのが傷ではなくキリストです。日々の生活でキリストに焦点を合わせた生活をしていますか?
わたし達は他の教派の伝道を見るのでもなく、伝道者の欠点に焦点を合わすのでもありません。ひたすらキリストに焦点を合わせれば、許された自分が見えてきます。キリストに近づけば、‘それだけ自分の罪が現されるので、謙遜になります。お互いに愛し合うことは、お互いに許しあうということです。神は愛でキリストが謙遜の代表です。わたし達クリスチャンの最終目標はキリストのようになるですが、キリストのように完全にはなれません。キリストのように許す人となるのが、キリストのようになるの意味です。今日復讐を考えておられたら、神に委ねてください。お祈りましょう。
在天の父なる神様 御名を崇めます。どうぞ日々の生活でわたし達が犯す罪をお許しください。もし許せない人がいれば、主よキリストの愛によって許すものと変えてください。許せる信仰をお与えください。わたし達の生活が罪を考える生活から、キリストを思う生活に変えられますように祈ります。すべて人の罪をあなたが許したように、私の罪をも許してくださいました。罪を許されたものとして、罪許すべきものと変えられますように、イエスキリストの御名により祈ります。
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