投稿

7月, 2012の投稿を表示しています

予定説と自由意志

2012年7月29日 日曜日礼拝説教  説教タイトル Predestination (予定説)と自由意志Free-will 聖句ローマ書9章 インランドエンパイヤ日本人教会牧師 楠 秀樹 今日は質問からメッセージを始めます。 クリスチャンになるのは神に選ばれたから?それとも自分の意志で神を選んだから? 2000年間この答えを出すために、聖書学者が論争してきましたが、答えは出すことができません。従ってこの40分の説教で答えがでたら奇蹟です。ただバプテストの牧師としては、聖書に基づくなんらかの答えを出さないと、私の首が危なくなる?アメリカでも牧師不足なので、そう簡単に首は飛ばないでしょうが、楠なりの答えを出すことにしましょう。それで首がつながるでしょうか?残念がる人もいるかもしれません。 さてこの2000年前からの質問の基本的な見方をここで示します。 私たちは神に選ばれてクリスチャンとなりました。これは罪人であるままで、受け入れられ神の子となる権利を、イエスキリストの十字架の贖いによって恵みの内に与えられたと理解します。神の選びはユダヤ人の父アブラハムを通して明確に示されました。カルディア国の一市民であったアブラハムを選んで、神の民ユダヤ人とする約束をしたのが、YHWH(アドナイと発音する)の神でした。 これはユダヤ人が一方的に神から選ばれたことを示します。そこでアブラハムは神の啓示を信じ、信仰を持って生まれ故郷ウルを離れ、まだ見ぬ約束の地(現イスラエル)に向かい旅立ちます。これが信仰を持って神に従うひな形となりました。(創世記11章) 21世紀の私たちも、まだ見ぬ天国を目指して、この地上を旅をしています。目に見えない神を信じ、目に見えない天国を目指し信仰生活をしています。神に選ばれたので、クリスチャンになり、人生を神と共に生きるというひな形がここにあります。  神がクリスチャンを選んだとすると、クリスチャンでない人は、地獄に行くように神がされたと考える方が出てきます。つまり神に選ばれないで裁きを受けると考えます。ところが、神は誰一人として滅びることを願っていないと聖書にあります。その証拠がキリストの十字架での死です。キリストはすべての人の罪のために十字架にかかりました。選ばれたものだけではありません。(第2コ...

クリスチャン教会の低迷原因

1945年8月15日 中国大連市で帝国陸軍の通信兵をしていた父の元に一通のテレグラムが届いた。中国で最初にそのニュースを受け取った彼はそのニュースの信憑性を疑った。そこに書かれていたのは「日本国は無条件降伏を条件に戦争の終結する。直ちに武装解除して、帰国の準備をされたし」父は部下たちにこのニュースを伝えるべきかどうかを迷ったという。それは自分で日本国の敗戦を消化できていなかったからだろう。しかし彼の心配をよそに、無条件降伏のニュースは中国のメディアを通して中国中に流された。心配する混乱もなく父はそのニュースを楠隊部下たちに伝えた。そのころ特殊爆弾が広島と長崎に落とされたというニュースも同時に流された。昭和天皇の言葉通り忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、戦争を終わらせる決断をした。 この話を聞いたのは私が若干8歳の時、当時の私は父の心の動きを知るよしもなかった。 この後にポツダム宣言をサンフランシスコで調印、日本は正式に戦争の責任を全面的にまた一方的に無条件で受け入れることになった。アメリカは敗戦後、廃墟と化した日本に多くの物資と人道的支援を始めた。特筆することはマッカーサー元帥は、日本人の精神的な柱であった天皇裕仁信仰が崩壊した後の霊的バキュームを心配し、できるだけ多くのキリスト教宣教師の派遣をアメリカのキリスト教諸教会に嘆願した。アメリカ政府の方針として、キリスト教による霊的復興をはかったのだ。しかしこれが後に大きな霊的足かせとなっていった。戦勝国の宣教師として入ってきた彼らは物質的に日本国の復興をサポートしたが、霊的必要性を満たすことができなかった。どうして宣教師らはキリスト教によるリバイバルを日本で起こすことができなかったのだろうか? たぶん私は「Pride」がそこにあったのではないかと思う。 戦勝国のキリスト教が敗戦国の神道日本を救うという「Pride」があった。キリストの福音による救いではなく、アメリカの物質主義を運んできたのが宣教師だった。したがって物質的にすべてが欠乏していた1950年代は宣教師のいうことに耳を傾けていた日本人も、1960年に入り経済的に安定してくると、宣教師に耳を傾ける必要性がなくなっていったのである。キリスト教でなくても日本は復旧できる。しかもそれがもっと如実に社会的現象として現れたのが、1964年...

クリスチャン光線’

クリスチャン光線 聖霊の賜物の一つに「霊を見分ける力」があります。霊を見分けると言うと霊媒師みたいな表現でキリスト教らしくないですが、悪霊を見分けるというのではありません。そうなるとハリウッドのエクソシストのようです。ちなみにエクソシストはカトリック教会の宗教行事で、プロテスタント教会(福音派)では行われていません。人間が霊にとりつかれるという概念が聖書の時代とは違うからです。当時2000年前はADHDやてんかんは悪霊の仕業と勘違いして、霊を払うことをしていたようです。しかし21世紀に入って、これらの現象が脳の疾患やDNAの傷が原因であることが解ってきました。カトリック教会でもだんだんと人間の精神的な構造が解り、エクソシストをする回数は減っています。それでも未開地に行けば霊媒師がいるので、彼らのために取りなしの祈りはするようです。 さて私の言う霊を見分ける力とは、聖霊の働きのうちにある賜物を指します。 霊の賜物なので与えられている人といない人がクリスチャンでもいます。霊の動きに敏感な人は、その人の霊的な必要がカウンセリングをしなくても解るらしいのです。私にはない賜物ですが、牧師にはほしい賜物のひとつです。そんな鈍感な私もある思いが時々与えられます。それは人と出会った時に感じる、心にいるキリストの霊を感じる時です。クリスチャンと話していると感じるものがあります。この人の中にキリストが生きているという直感です。これをわたしはクリスチャン光線と勝手に呼んでいます。 今回家を直すのにいろいろな人と出会う機会がありました。そのなかで電話でも対面しても、その人の中にキリストがいるという確信、クリスチャン光線を発している人と出会うのです。その確信を与えられると、心に平安が与えられます。昔のことわざで、ツーカーの仲、言葉を交わさなくても相手の心理が解る現象のことです。 またその反対に、クリスチャンのミーティングや初対面のひとで、紹介される時に「私はクリスチャンです」という方と出会います。しかしこの自称クリスチャンから、聖霊の臨在を感じない時があります。19年前に中国に行った時に父の葬儀を大連市でしました。その時に共産主義の中国政府側から準備されたのは20名のクワイヤーと牧師2人がいました。彼らと名刺を交換しながら思ったことは、クワイヤーの人々とこの牧師ら...

English Message

What can Christians do in TIMES OF TROUBLE?” Pastor Hideki Kusunoki Japanese Christian Church of the Inland Empire TODAY’S TEXT : James 5:13-20  Our church is small but when it comes to problems we have countless issues before us.  Who doesn’t?  Just look around us.  There are health issues, financial issues, relationship issues, communication issues, leadership issues, Sunday school issues, pastoral issues, etc.  What is your real concern for this week?  I felt like I had so many that I just could not count them anymore. Being a Christian does not mean we are trouble free. However, the Christian has an advantage as a believer in God who controls the universe.  We have confidence in God for whatever happens in and around our lives.  It is either God’s plan or God’s approved test.  We have this life on earth, and each day challenges come to our life. By trusting in God through these challenges, we can get closer to God.  It is our...
インランドエンパイヤ日本人教会 日曜日 説教タイトル 互いに許し合う心 主任牧師 楠 秀樹 主題聖句 コロサイ人の手紙3章13-15節 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。 最近牧師として質問をされました。さてその質問は以下のおとりでした。 「罪の告白がなければ人間は救われない」のでしょう? この質問は、「先生、罪の告白をしなければクリスチャンではないのですか?」 が正しい質問形態です。 ここでこの方は、罪の告白なしには救われない?[永遠の命を受けるに値しない]と断定しています。はたして罪の告白で、永遠の命を受けることができるのでしょうか?聖書を通して検証してみたいと思います。 答えから先に示すとこうです。罪の告白による救いを示した聖句は見つかりません。 人間の救いはキリストの十字架の贖いによるものです。キリストが十字架に自分の罪のために架かったと信じ告白すればクリスチャンです。 つまり罪の告白[人間の行い]ではなく、キリストの示した恵みにより救われます。 エペソ書2章8-9節 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 わたし達が救われるのはわたし達の行い[罪の告白を含む]ではありません。告白をすることは間違いではありません。しかし告白で救われるのではなく、あくまでもクリスチャンになるのは、神の一方的な恵みによるのです。クリスチャンになるための告白があるとすれば、「私はキリストを主として救世主として信じます。」という信仰告白であり罪の告白ではクリスチャンにはなれません。 世界一有名な聖書の箇所は ヨハネ3章16節-17節 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。...