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1月, 2020の投稿を表示しています
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  目に見える偶像を拝んではいけない例を上に写真で表現しました。 左上のキリストのポートレートは偶像です。人の手で描いたものだからです。誰もキリストを見たものは、21世紀に生きていません。第一キリストはユダヤ人で金髪ではなかったでしょう。ゆえに上の人物は天国に行った時に私たちが出会うキリストではないでしょう。しかし現代の日本人がこの写真を見れば、クリスチャンでない方も、100%イエスキリストと認識するでしょう。これもキリスト教会で行われている偶像礼拝が持ち込んだ罪の影響です。たぶん本当に復活されたキリストを見た時に、私たちはその方を本当のキリストと認識できないでしょう。このような写真が教会内外でまん延しているからです。 みなさんはユダヤ系アメリカ人の俳優でコメディアンのウッディーアレン氏(1978年映画アニーホール制作者)をご存知ですか?私のキリストのイメージを言えば、眼鏡をはずした背の低いウッディーアレン氏がキリストに似ていると思います。そして話すときも高い声で、早口に話す姿を想像します。体系も思ったほど痩せていない寸胴型で、今までのキリストのイメージを完全に否定しています。もしそうでなければ、天国でキリストに謝らなければいけないでしょう。レオナルドダビンチの描いた、最後の晩餐のキリストではないのは間違いないでしょう。 16 世紀のヨーロピアンをモチーフに書いたキリスト像は、金髪で青い目のイメージです。ユダヤ人からはかけ離れたイメージのキリスト像です。現在奇跡的にキリストを見たという人 ( すべて偽物で怪しい人が多いのが特徴 ) のほとんどがこのヨーロピアンイメージのキリストに出会っています。つまり彼らは本物のキリストに出会ってはいません。自分の中で作り上げたイメージの方がでてきています。私たちが本当のキリストを見てもそれがキリストとわかるものが 21 世紀の人類にはいないでしょう。最近では本物に近いイメージが描かれています。これも想像の域は脱していませんが、金髪のイエスよりは本物に近いと思います。 ( ウッディ―の右 ) 本当のキリストはどんな顔をしているのかは天国で出会うまではわからないでしょう。 同じように...

謙遜の神 

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本日の聖句 ヘブル書4章15節 題 謙遜とキリスト 説教者 楠 秀樹  求道者で幸福の科学を信じていながら、毎週教会に来ておられる方がいます。この方は三位一体を否定し、キリストは天なる父の神と同一格ではないと主張されています。その根拠はキリストが天の父から遣わされたから、同じ神であっても格の低い神という、幸福の科学的教義を展開しています。神には階級があって、低い神が高い格の神に仕えるのが幸福の科学の神学です。新興宗教の神はキリスト教唯一神ではないので、強い神に弱い神が仕えるという構造なります。 方程式で現せば、格の高い神 エルカンターレ>格の低い神 イエスキリスト 渡航風の科学は一位置づけしています。 しかしキリスト教にはこの方程式が当てはまりません。神にヘラルキーはありません。三位一体を方程式で現せば、                父なる神=子なる神=聖霊の神 同一格です。  エホバの証人の研究をし、家族がメンバーになった時にその救出を手伝う団体があります。真理のみ言葉伝道会 この主事で宣教師 William Wood 博士は幸福の科学と同じように、三位一体を否定するエホバの証人へ、「エホバの証人の反三位一体に答える」という本を書いています。この本の79ページに「本質的に父なる神と一つであったキリストは、ご自身を低くされて、その栄光をおすてになり、人間の様になられました」だからキリストは人間としての制限を受け、時には疲れ、時には空腹を覚え、全知全能の神でありながら、知らないことがありました。これが弱い神に映るのです。へブル書には「そうゆうわけで、神のことについて、憐れみ深い、忠実な大祭司になるため、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」(へブル 2 :17)あらゆる点で人間として試みを受け、十字架で死に、復活し救いを完成されたのがキリストです。   キリストは謙遜を示す神です。本当の神だからできることです。謙遜は神の本質を示します。仕える神が格の低い神という概念はなく、逆に謙遜できる神が本物ではないかという問いかけです。人間は罪があるので真理から離れています。  キリストが人類に示したのは、全知全能ですべての創造主 神として父なる神と同一格でありながら、謙って人間にな...

ダブルインピュテーション とは何か

2020 年お正月のご挨拶のタイトルは、 ダブルインピュテーション  Double Imputation    まず第一にダブルインピュテーションの定義です。「キリストの義が罪人に転嫁されると同時に、人間の罪がキリストに転嫁されること」  クリスチャンは聖書的に神の義により罪が許されています。神の義が人間に注入されたときに罪びとである人間を義と変える。この神の義は与えられたものです。インピュテーションを日本語にすると「転嫁する」と訳されていました。私たちがクリスチャンになるときには、同時に2つの転嫁が起きていると仮定されます。神の義が私たち人間に転嫁し、そして人間の罪がキリストに転嫁する。私個人では転嫁という表現よりも、注入されるという表現のほうがしっくりきます。  ところが一部の神学者はダブルインピュテーションに待ったをかけます。神の義が人間に転嫁されることに問題はありません。神の義が私たちの心に入ってくるようなイメージです。しかし人間の罪がキリストに転嫁されるとう概念には問題があります。インピューテーションは一方的に神からの働きで、キリストの神性は影響されないと考える神学者がいます。それが私です。キリストが十字架にかかった時に、罪の身代わりとはなりましたが、キリストご自身が罪人になったのではありません。キリストは清い方で罪のない方です。屠られなければいけないのは罪のないものが十字架で罪を贖います。キリストは十字架上で罪人になったのでは罪の生贄にはなりません。つまりキリストの神性は十字架上でも変わることがなく、人間の罪で神性が失われることはないと楠は考えます。 ここで聖句を見てみましょう。ダブルインピュテーションをにおわす聖句です。  第二コリント 5 章 21 節 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」  神との和解はキリストの義が私たちに与えられたと同時に、 罪を知らない方が罪とされた とあります。キリストに私たちの罪が帰属し、それを私たちの代わりに罪とされたと理解します。キリスト自身が罪になる、または人の罪が転嫁されるという解釈ではありません。イメージ的には罪の咎をぬれぎぬのようにかぶったのであり、根本的に...