謙遜の神
題 謙遜とキリスト 説教者 楠 秀樹
求道者で幸福の科学を信じていながら、毎週教会に来ておられる方がいます。この方は三位一体を否定し、キリストは天なる父の神と同一格ではないと主張されています。その根拠はキリストが天の父から遣わされたから、同じ神であっても格の低い神という、幸福の科学的教義を展開しています。神には階級があって、低い神が高い格の神に仕えるのが幸福の科学の神学です。新興宗教の神はキリスト教唯一神ではないので、強い神に弱い神が仕えるという構造なります。
方程式で現せば、格の高い神 エルカンターレ>格の低い神 イエスキリスト 渡航風の科学は一位置づけしています。
しかしキリスト教にはこの方程式が当てはまりません。神にヘラルキーはありません。三位一体を方程式で現せば、
父なる神=子なる神=聖霊の神 同一格です。
父なる神=子なる神=聖霊の神 同一格です。
エホバの証人の研究をし、家族がメンバーになった時にその救出を手伝う団体があります。真理のみ言葉伝道会 この主事で宣教師William Wood博士は幸福の科学と同じように、三位一体を否定するエホバの証人へ、「エホバの証人の反三位一体に答える」という本を書いています。この本の79ページに「本質的に父なる神と一つであったキリストは、ご自身を低くされて、その栄光をおすてになり、人間の様になられました」だからキリストは人間としての制限を受け、時には疲れ、時には空腹を覚え、全知全能の神でありながら、知らないことがありました。これが弱い神に映るのです。へブル書には「そうゆうわけで、神のことについて、憐れみ深い、忠実な大祭司になるため、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」(へブル2:17)あらゆる点で人間として試みを受け、十字架で死に、復活し救いを完成されたのがキリストです。
キリストは謙遜を示す神です。本当の神だからできることです。謙遜は神の本質を示します。仕える神が格の低い神という概念はなく、逆に謙遜できる神が本物ではないかという問いかけです。人間は罪があるので真理から離れています。
キリストが人類に示したのは、全知全能ですべての創造主 神として父なる神と同一格でありながら、謙って人間になったことで他宗教との違いを示しています。他宗教は人が認められようとしてがんばります。よい行いをし、精進し、苦行を積み、悟りを開き自分を高めようと精進努力します。キリスト教は逆です。キリストのようになるが教えの基本です。キリストのように謙るり仕える。キリストは人となり仕えました。同じように仕えなさいという教えです。
キリストが人となった理由は 人間の罪の贖いだけではありません。「私たち人間の弱さに同情できない方ではない、罪は犯しませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(へブル4:15)
肉体の弱さを理解する神がここにいます。私たちの日々の生活での葛藤を理解してくださるのは、私たちと同じレベルにまで謙ってくださったキリストがいるからです。他の宗教の神は人となっていませんしまた介入していません。謙れる方が神です。弱いから謙るのではありません。神としての権利をあえて主張しない神がキリストです。
主はご自分が試みを受けて苦しまれたので、試みにあわれている私たちを助けることがお出来になる(へブル2:18)上から神が私たちを見ていて、頑張れよと エールを送る神ではなく、地に下り人となり、一緒に苦楽を共にする神です。
キリストは父なる神と同一格か?
謙遜の神キリストは父なる神と同格であるにもかかわらず、人となって地上に来ました。キリストは万物の創造される前に存在し、万物を創造しました。(ヘブル1:2)キリストが神ではなく、子なる神という表現で父親から作られたと主張するモルモン教ですが、では母なる神はどこにいるのでしょうか?聖書には出てきません。すべての被造物の前に存在し父なる神とおられたのがキリストです。キリストは造られたものではなく、すべてのものの創造前に存在した方です。造られたのは肉体です。人間となるために一時的に神の衣を脱ぎ、人間に生まれました。これ以上の謙りはありません。アリの巣が洪水になることを知らせるために、私たちが蟻になって洪水から救うことができるでしょか。人間が蟻になるよりも、神が人間になる方がギャップがあります。もし蟻になれたとしても、身代わりになり蟻を救いに行くでしょうか?
謙ったキリストは、私たちに謙遜になれという権利を持っています。そして人間キリストは十字架にかかり罪を贖いました。同時にキリストは奇跡を起こし、復活されています。復活は人間キリストが神キリストに戻った時です。ゆえに人間キリストもエッセンス(本質)は神です。これを理解するには聖霊の働きが必要です。普通には理解できません。聖霊が働いてキリストを神と信じらるようになります。ゆえに人が救われるのは人間キリストを神と信じる信仰が与えられた時です。信仰は神より与えられるもので、人から出るものではないからです。一方的な神の選びで、この理解力が与えられる人と与えられない人とにわかれます。私たちが生まれる前からの選びです。クリスチャンは自分でなろうとしてもなれません。神に選ばれたものがクリスチャンです。その選びが理解できれば、謙遜を理解できます。自分のようなものが神に選ばれた恵みを感謝するからです。
最後に私のPost牧師の話を示して終わります。
これまで有名になった宣教師のあるあるは、たいていの場合 有名な宣教師の妻は病弱です。しかし困難を乗り越え福音を伝える器となります。この方程式で行くと、私は有名になる条件が整っていました。家内が大変病弱です。しかし有名になっていません。どうしてでしょうか?有名になる宣教師の資質が謙遜なものであるからです。私が有名なキリスト教の牧師になれなかった理由は、大げさにものごとをという性格と知識があれば見せびらかすからです。また正しいと思えば絶対に自分の意見は曲げません。よくその性格で牧師になったものだと思われるかもしれません。解っています。そこで牧師をやめ中小企業の社長を偉くもないのに偉そうにやっています。しかし60歳を過ぎてそろそろ謙遜を学ばないといけない年です。
以前私は自分を大器晩成型と思っていましたが、最近では大器でも晩成でもないことに気づきました。謙遜になっています。また5年間会社経営を任されても一向に会社が大きくなりません。もっと早く気づいていればよかったのです。私にとって今が謙遜を学ぶときです。そうすれば神がこの会社を上場企業にしてくれるような気がします。しかしもし会社が大きくなれば、また私がやったんだと大ぶろしきを広げるでしょう。ですから神は忍耐して私がもっともっと謙遜になるのを待っておられる気がします。そのときがくるのを期待して、
お祈りしましょう。
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