ビジョンに従ったペテロ


 (2007年前後の事)日曜日秋葉原で25歳の青年が無差別にナイフであばれ、7人が死亡し10人がけがをするという事件が起こりました。日本は安全だという神話は完全に崩れ去って、アメリカにいる方が安全に感じます。犯人の加藤容疑者は犯行を携帯のブログに予告し、自分の持つ劣等感から、無差別殺人の犯行予告をしていました。

特に親に持つ反感が強く、ワイドショーニュース独占という、自己顕示欲を示す内容を携帯サイトに書き込みしていたようです。

 可哀想なのは罪のない両親です。事件後記者会見をしている途中に、母親は力無く倒れかけました。どうして25歳になる成人の事件で親が謝らなければならないのか?日本の社会は成人の息子の責任を親にさせるという矛盾を感じます。未成年者であれば親の責任でしょうが、親から独立した息子の責任を親が取る必要はないでしょう。矛盾と怒りを覚える記者会見でした。アメリカでは考えられない記者会見です。聖書でもこのような場面があるのを思い出しましたが、イエスが安息日に盲人を癒したのを不服として、パリサイ人らが親に彼はどうして癒されたかを聞きました。親は「あの子はもう大人ですから、あの子に聞いて下さい」という会話があります。こちらの答えは大変理にかなった返答です。


本日の聖句は使徒行伝10章1節―15節

説教タイトル 「ビジョンに従ったペテロ」


ここでは2つの超自然現象が書かれてあります。

I.              最初はローマの百人隊長 コルネリオがカイザリアにいたときのことです。彼は幻の中で、ヨッパにいるペテロに会いに行くように、天使から示されます。


 どうしてこの異邦人が神から個人的な啓示を受けたのでしょうか?検証します。

答えを先に書けば「神を恐れかしこむ人」であったからです。異邦人でありながら、神を信じユダヤ人に施しをしていました。神はユダヤ人を神の選民として選びましたが、異邦人であっても心から神を求める者には自らを現してくださるというひな形です。神は自らを示す方です。神は常に神を求める者に現れてくださいます。求める動機が好奇心という自己満足のためではなく、心から敬虔な求め方をする方に現れます。好奇心で神を求めても神は現れてくださいません。どうしてでしょうか?自分の欲を満たすだけの求め方であるからです。しかしコルネリオは祈りを伴う求道をしていました。祈りをしていた答えがここにあります。心から真摯に神を求める者に神は現れてくださいます。それがキリスト教の神です。

 キーワードは「神を恐れる者」に神は現れるお方です。求道される方の心が神を動かすのです。神への恐れがある方へキリストは真理を伝えます。真理を求めるかたに信じる信仰があれば神がその信仰に答えてくださいます。求め方が問題です。真剣に心から謙り求める姿があるでしょうか?それとも「ホントに神はいるのか」という好奇心で求めているのでしょうか?求道者は動機を吟味する必要があります。神を恐れる心を持っているかが神を求める人に必要な心構え(attitude) です。


II.ペテロのビジョン

次のビジョンはペテロが受けた不思議なビジョンです。

 ペテロもこの幻を受けたときは祈っていました。祈っているうちに、夢ごごちになり見た幻です。夢であったといえるかもしれません。ここでは天からユダヤ人の律法では食するのを禁じられている動物が降りてきて、神がそれを食べなさいと命じます。しかしペテロはいままでそれらを口にしたことがありません。そうすると「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と天から声がありました。


 当時教会はユダヤ人だけではなく、異邦人にも福音が伝わり、多くの異邦人がユダヤ人と一緒に礼拝をするようになっていました。しかしその中でユダヤ人の間から、異邦人もユダヤ人と同じように律法を守るべきだという意見をするものが現れました。しかし新しい契約によりつまりイエスにより清められた者は、旧約聖書の律法を守る必要はありません。新しい契約により古い契約はその力を失うからです。キリストの血潮により新しくされた私たちに、古い契約は有効ではありません。結婚すればその結婚で私たちは結ばれていますが、どちらかが死ねば、その結婚の契約からは解き放たれるので、再婚しても罪にはなりません。同じようにすでに失効しているのが古い契約である律法です。とくに食事の律法によって縛られることはありません。何でもクリスチャンになれば食べられます。しかも食事の規制はユダヤ人に与えられたもので、異邦人がそれを守るようには最初からなっていません。日本人でよかったと思いませんか?特にとんかつとエビフライの好きな私は律法は最初から守れなかったでしょう。


 ではどうして食事の規制がユダヤ人に与えられたのかです。これは食べ物による汚れではなくもっと根本的な汚れを防ぐためでした。異邦人とともに食事をすることで、異邦人の拝む神を拝むようになるのを神が解っていたからです。ソロモンがいい例です。周りにある国々のお后と結婚することでイスラエルを敵国から守る政策をとりましたが、結果的に他国の神を受け入れるようになってしまったのです。食事の規制も根本的には、偶像礼拝をしないように、異邦人との食事ができないようにしたのです。同じように旧約聖書では禁じられている異国間の結婚の律法は、新しい契約によりその有効性をなくしています。アメリカ人と日本人の結婚は聖書的に間違っていません。わたしと家内も国際結婚なので自分で言って安心しています。


 私たちが汚れるのは食べ物や異人種間の結婚ではありません。なにが私たちを汚すのですか?不信仰と不従順です。キリストを信じる信仰により清められていますから、信仰がなければ清くはなりません。また神の教えに従順でなければ神のみ心を行う信仰生活にはなりません。人間は外から体に入るものでは汚れません。私たちが汚れるのは不信仰と不従順です。ペテロはこのビジョンを受けた後、外国人であるコルネリオと食事をともにしています。不従順で古い律法を誇示していれば、この食事会は成立していなかったでしょう。しかし従順であるペテロはコルネリオとともに食事をします。この従順を神は喜びました。


結論

 聖書で禁じられている律法には理由があります。しかし表面的にただだめだからだめではなく、どうしてだめかを掘り下げていくと、信仰の問題であることが見えてきます。古い契約は破棄されたことをクリスチャンは知る必要があると同時に、同じ律法でもその根本的な効力を失っていない契約もあります。

 神を拝め、父と母を敬え、殺すな、等の十戒における戒律は守ることで清められることはありません。行いで清められるものではないからです。しかしモラルスタンダードとして守ることで神に栄光が帰すことはクリスチャンとして守ることも必要です。しなければならないという強制ではなく、自らの意志ですることで神が喜びます。自分になんらかの恩恵があるから守るのではなく、神に栄光が帰すので行う行為がクリスチャンの動機であるべきです。本当に罪からの解放がキリストを信じる信仰にあるから、律法ではなくまた行いでもなく、めぐみにより救われています。それは誰も誇ることがないためです。お祈りします。

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