復活のキリスト
全ては神の言葉で始まった。創世記1章1節「まず初めに神が天と地を創造された。」
そしてこの創造がex nihilo(無からの創造)であることを以前説教で話しました。無から有を創造できる神が三位一体の神であり、私たち人間はこの宇宙創造と同じ動詞(バラー)で創造されていることを話しました。
また創世記第1章3節 神の造った最初の物質が光であることも学びました。神が最初に創った光りの創造に音がないという楠論は、一般的に信じられて いる創造のビックバン論に疑問を投げかけます。これはキリストのサンダルのサイズと同じです。神のサンダルサイズを知っていたからと言っても信仰の足しに はなりません。光の創造時に音があったかなかったかは、キリストのサンダルサイズと同じようにトリビアな質問です。肝心なのは神の創造で光りが造られたの がはじまりであると言うことでした。
そしてこの創造主が、ヨハネ1章14節で人となって現れたことを話しました。これがイエスキリストであり、神が人間界に人間として遜り生まれたことを話しました。神の人間としての誕生は罪で滅び行くであろう、私たちを救う最終手段であったのです。
どうして神が人間とならなければ、人間が救えないのか?
一般的に日本人は「罪の贖い」という概念がありません。従って十字架が罪の贖いのためと言っても意味が解りません。自分が罪人という認識がないからです。 生まれながらに罪はないという性善説を信じているからです。罪は生まれた後から付いて来るという考えです。ですから神社に行ってお祓いをすることが、清め の儀式となります。本質的に人間はよいものであるので、生活でついた汚れを「お祓い」すればいいと考えます。
キリスト教の大前提が、生まれながらにして罪人ですから、日本教の神道とは人間論が全く逆です。こんなたとえはどうでしょうか。十代の時恋人になる まえの友人に「好きだ」と告白するのは難しいですね。なぜなら相手が私はあなたのことを「友達としか考えられない」という答えが返ってきそうだからです。
神が人間となったのは、神からの言いなれば「告白」です。
「私はあなたを愛している。故に人となり十字架に掛かり、あなたの罪を贖った。」と言っているのがキリストです。しかし日本人の99.8%は「お友達でいましょう」と言っているのです。コミットメントが一人の神にできないのです。「だって他にもいい人(宗教)たくさんあるじゃない。だから一人の人(宗教) に決めるのはいや」(自分は狭い宗教観を持ちたくないと思う)と言う態度です。
一般的に汎神論を信じる日本人は、どうしてもキリスト教だけを信じれば救われるというオプションに疑問を抱きます。みんなとお友達でいた方がいいという結 論になっています。悪魔が人間に介入するとすれば、お友達でいましょうという発想が悪魔的な誘惑です。You are OK , I am OKあなたも私も≪神を信じなくても≫大丈夫と誘惑します。
「あなたはいままでちゃんと生きてきたじゃない、大丈夫、キリストを信じなくても生きては行ける」というささやきが聞こえてきませんか?一番怖いサタンの誘惑は日本人の持つユニバーサリズム論(どの宗教を信じても究極的には人間みな天国に行ける)です。日本人の99.8%がこの嘘で結果的に天国に行けません。
ここで他のお友達を見て行きましょう。仏陀、モハメッド、ヒンズー、代表的な世界3大宗教の神は、私たちのために人間にはなっていません?
仏陀は基本的に 無神論です。
モハメッドはアラーの神の預言者ですが、アラーの神は人間となっていません。
ヒンズー教は汎神論です。神が人間になるのではなく、人間または 命あるすべてのものが神になる宗教です。
これらの神々は私たちのために十字架またはそれに相当する贖いをしていません。していないというよりも人間となっていないので、人間の罪の贖いができないわけです。これらのお友達は私たちのために贖い死ぬことはできません。私たちのために十字架に掛かり、愛を示した 方はキリスト以外にいないのです。
キリストがお友達ではなく、個人的に神の告白を受け入れるに値する方である理由を説明しましょう。
キリスト教で大切な4つの信仰の柱があると以前話しました。これらの4つを信じることができれば基本的にあなたもクリスチャンです。
1. キリストの処女降誕
2. キリストの十字架の贖い
3. キリストの復活
4. キリストの再臨
1は人間として生まれたという証拠、また罪のない人間であるという証拠
2は罪のために十字架で人間の罪を「贖った」証拠
3はキリストが人間100%であったと同時に復活で神100%であったことの証拠
4は再臨は人間の歴史に介入した神の約束が必ず成就するという証拠
本日は第3番目の証拠 復活のキリストを見て行きます。
ヨハネの福音書20章1節から10節
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置 いたのか、私たちにはわかりません。」 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるの を見たが、中にはいらなかった。 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれた ままになっているのを見た。そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
キリストが復活したという証拠は歴史的事実として認証された出来事です。従って復活していないというと言えば、歴史的事実の否定となります。聖書のこと だから信じないと言うのは、クリスチャンでなければ理解できますが、人類史の中で実際にあった出来事の否定は自分が2019年3月27日の日本に生きているというのを否定することと同じです。第2次大戦中にユダヤ人の600万人はナチによって殺されたことは歴史的事実です。しかしそれをも認めない方が います。ユダヤ人のこととなると歴史的事実が正しく伝わらないのはどうしてでしょうか?イエスもユダヤ人ですから不思議な現象です。
復活を信じないと言うのは何も、ノンクリスチャンだけではありません。18世紀の初めに始まった高等批判の運動で、聖書を間違いのない書物と受け取らない ドイツ神学を中心としたFriedrich Daniel Ernst Schleiermacher (1768~1834)らが、肉体を持った復活を信じない神学が教会に入ってきました。キリスト教の学者は、肉体を持った 復活のイエスに躓きました。躓いたと言うよりも、信じられない部分を取り除く運動をしたと言った方がいいでしょう。特にアタックしたのが肉体の復活の箇所 でした。奇跡を信じられないリベラル派が一番躓いたところです。彼らは霊的復活と肉体的復活があるという主張をしました。しかし復活したキリストは魚を食べています(ルカ24章43節)から、霊的復活論は通じません。
これらの学者がどうして躓いたか?聖書を科学を使って理解しようとしたからです。聖書は科学の本ではないのです。ですから科学的に分析はできません。キリストの復活を科学的に証明できないので、キリストは復活していないという結論が出てしまうのです。奇跡を信じられなければ、聖書を信じる意味がありません。奇跡を否定する科学は奇跡の書いてある聖書を受け入れることができないわけです。19世紀に科学万能説が奇跡を信じる単純なクリスチャンを批判しましたが、21世紀に入っては科学者(専門知識を持つもの)が聖書を信じることを再認識しています。どうしてでしょうか?科学者の中に奇跡を信じる余裕 (キャパ)が出てきたからと楠は分析します。
結論
神との関係は 「まずはお友達から」は通じません。まずは神を神としてキリストを受け入れることが、最重要課題であり最低のコミットメントです。夫婦関係と同じで、 これから夫婦として生活しますと言っておきながら、他に恋人は作れません。作れば夫婦関係に破綻が来ます。おなじようにキリストを信じるというコミットメ ントは個人的な関係を神(キリスト)と結ぶことです。キリスト教は宗教というレーベルではなく、個人的に神との関係を回復することです。楠の主張はキリスト教は宗教にあらず、個人的関係の回復を示す道と定義しています。キリスト教というよりキリスト道というべきです。
「私は大丈夫」という言葉の中には、キリストが十字架に掛かったのは無駄なこと一人芝居で十字架で死んでいった宗教家イエスがそこにいます。「私は大丈夫」と言うこと は、キリストの死への冒涜であるわけです。罪のための贖いがなくても天には入れるというのであれば、キリストが掛かった十字架は意味のないことです。十字架に 掛かって贖わなければ罪の定まることが「嘘」だと言っているのが、「私は大丈夫」という人です。キリストは人類史2000年間人間を騙してきた大ペテン師で しょうか?
キリストの復活はキリストが人間で死ななければ、できないことであり意味のないことです。以前キリストの棺が見つかり、その中の骨がキリスト自身のもので あるという歴史的な発見?がありました。もしこれが本当にキリストの骨であったら、パウロの言うように、私たちは偽証者(ペテン師)で、キリストは復活し なかったことになります。もしキリストが復活しなかったら、復活の信仰を持つクリスチャンほど可哀想な人間はいません。またキリスト教会はこの2000年 間人類を騙してきた。とんでもない詐欺師集団です。
つまり復活したというキリストを信じるか?クリスチャンは歴史にない復活を言いふらすペテン師のどちらかです。あなたはどちらの言葉を信じますか?ペテン師の団体にいること自体とんでもないことです。しかしキリストが復活した歴史的事実により私たちはペテン師にならずに、真理を伝えるものとしてキリストの真理を伝えられます。あなたは今日の何を信じて生きていますか?この信じる対象によって人間形成が違ってきます。キリスト中心の人生を送っているか自己中心の人生か?決めるときが今です。キリストは復活し、40日間弟子らと共に過ごした後、オリーブ山から昇天されました。そして彼は約束されました。私は戻ってくると、復活の体を持って、戻ってこられると天使が語っています。(使徒行伝1章11節)復活のイエスはまた再臨のイエスの約束でもあります。
神との関係は 「まずはお友達から」は通じません。まずは神を神としてキリストを受け入れることが、最重要課題であり最低のコミットメントです。夫婦関係と同じで、 これから夫婦として生活しますと言っておきながら、他に恋人は作れません。作れば夫婦関係に破綻が来ます。おなじようにキリストを信じるというコミットメ ントは個人的な関係を神(キリスト)と結ぶことです。キリスト教は宗教というレーベルではなく、個人的に神との関係を回復することです。楠の主張はキリスト教は宗教にあらず、個人的関係の回復を示す道と定義しています。キリスト教というよりキリスト道というべきです。
「私は大丈夫」という言葉の中には、キリストが十字架に掛かったのは無駄なこと一人芝居で十字架で死んでいった宗教家イエスがそこにいます。「私は大丈夫」と言うこと は、キリストの死への冒涜であるわけです。罪のための贖いがなくても天には入れるというのであれば、キリストが掛かった十字架は意味のないことです。十字架に 掛かって贖わなければ罪の定まることが「嘘」だと言っているのが、「私は大丈夫」という人です。キリストは人類史2000年間人間を騙してきた大ペテン師で しょうか?
キリストの復活はキリストが人間で死ななければ、できないことであり意味のないことです。以前キリストの棺が見つかり、その中の骨がキリスト自身のもので あるという歴史的な発見?がありました。もしこれが本当にキリストの骨であったら、パウロの言うように、私たちは偽証者(ペテン師)で、キリストは復活し なかったことになります。もしキリストが復活しなかったら、復活の信仰を持つクリスチャンほど可哀想な人間はいません。またキリスト教会はこの2000年 間人類を騙してきた。とんでもない詐欺師集団です。
つまり復活したというキリストを信じるか?クリスチャンは歴史にない復活を言いふらすペテン師のどちらかです。あなたはどちらの言葉を信じますか?ペテン師の団体にいること自体とんでもないことです。しかしキリストが復活した歴史的事実により私たちはペテン師にならずに、真理を伝えるものとしてキリストの真理を伝えられます。あなたは今日の何を信じて生きていますか?この信じる対象によって人間形成が違ってきます。キリスト中心の人生を送っているか自己中心の人生か?決めるときが今です。キリストは復活し、40日間弟子らと共に過ごした後、オリーブ山から昇天されました。そして彼は約束されました。私は戻ってくると、復活の体を持って、戻ってこられると天使が語っています。(使徒行伝1章11節)復活のイエスはまた再臨のイエスの約束でもあります。
お祈りします。
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