2007年 10月14日
日曜日礼拝メッセージ 楠 秀樹牧師
説教タイトル 「不都合な福音とは」

 アルゴア氏がノーベル賞を受けたニュースが入ってきました。彼がプロデュースした映画「不都合な真理」で一躍脚光を浴びるようになり彼の示した温暖化の進む地球の現状は私たちにとって、不都合な真理であったのは間違いではありません。現実ではあるが受け入れることに抵抗があります。
 キリストが人類に示した真理も多くの人には不都合な真理(福音)です。
ヨハネ14章6節
「わたしが道であり真理であり命である。誰も私を通してでなければ父のみ元(天国)に行くことはない」

最近未信者のかたから質問を受けました。「(救われるのに)どうしてキリスト教でなければいけないのか?」 この方はキリスト教は他宗教を否定するので、排他的なキリスト教は信じられないと言われました。その方にたいして私の答えは「それは残念です」でした。
その方に何を説明しても、排他的なキリスト教の牧師が他宗教を認めずに攻撃しているとしか映りません。心の中では「あなたに信じてもらわんでも結構」と少し憤慨ていました。都合のいいことは信じても自分の理解を超えたことを言うキリスト教は信じないのか?と心の中では逆ギレしていました。きみは全ての知識を持っている人か?一般的に無神論者の間違いは、全ての知識を持ってそれでも「神はいない」と考えるなら許されます。しかし人間である限り全ての知識を持つことができるわけがありません。牧師としては愛が足りなかったですが、態度には出ていたかもしれません。すぐに顔に出るタイプですから。

また他の未信者方で今度は積極的に求道されているかたからはこのように言われました。「神の国って一人一人の心の中にあるものでしょう」この方はニューエイジの影響を受けておられるのでそういっていますが、私の答えは「そうですか、そのように考える方もおられますね」と相手を気遣っての答えでした。この方も自分に「不都合な福音」を受け入れる準備はない方でした。あなたは不都合な福音を受け入れるキャパがありますか?

いろいろな人が自分勝手に、キリスト教とはこうあるべきだと考えておられます。
上の例ではクリスチャンであれば、未信者の方の「ああ勘違い」ですが、同じクリスチャンでも「ああ勘違い」をしているときが一番難しいです。

 さてここでトリビアです。次の催しものの内に聖書にあるのはどれでしょうか?
1)誕生日会、
2)ハロウィーン、
3)感謝祭、
4)クリスマス

あなたが聖書に忠実なクリスチャンであればどれに参加しますか?
一般的にハロウィーンは福音派の教会では他宗教のお祭りですから教会でも飾り付けはしません。しかし毎年行われる12月25日のクリスマスも実際には太陽神の異教の祭りがはじまりで、基本的にはキリスト教とは関係はありません。キリストが生まれたのは春で12月25日ではないからです。しかしほとんどの福音派の教会ではクリスマスツリーを飾り、クリスマスをキリストの誕生日として祝います。これが矛盾するところです。ハロウィーンはしないのにクリスマスを祝います。クリスマスツリー(聖書にはでてこないモミ木)を飾るのに、パンプキンは飾りません。ハロウィーンが悪魔礼拝と言うところまである始末です。実際は福音派教会が作り出したでっち上げで、全く悪魔礼拝とは無縁なのがハロウィーンです。クリスチャンは歴史的に魔法使いを裁いてていました。もし殺人が行われたとすればクリスチャンの方です。(魔女狩り)
聖書的な福音派の教会は、聖書にないことを一方的に否定する傾向があります。しかし厳密に言えば聖書にはない異教徒の祭りを教会が奨励しています。クリスマスにクリスマスツリーを飾ることに違和感を持ちません。私はクリスマスツリー自体が偶像礼拝とは思いません。それはアメリカにクリスマスツリーが紹介された年(1777年)以後、アメリカのクリスマスのかたちとして土着化しているからです。アメリカの文化としてクリスマスがあるので、教会が自国の文化として受け入れてクリスマスをするのは間違っていません。しかし根本主義者はそれをみとめずに、教会でのクリスマスツリーを偶像と批判します。聖書ではユダヤ人の文化から出てきた価値感を示します。もし聖書一辺倒主義だとユダヤ人でもないのにハナカを祝うことになります。それこそ自国文化と矛盾した信仰となってしまうでしょう。最初の4つ質問の催し物ので聖書的なものは一つもありません。ではクリスチャンが参加することは間違っているのでしょうか?エホバの証人は参加することは間違っていると言います。
 
1) 誕生会 誕生日を祝う習慣は聖書に記録されていない。誕生日のケーキはギリシャの月礼拝 から来ていると言われていて、ロウソクをたて吹き消す前にする願い事は異教の慣習
2) ハロウィーン 異教徒ケルト人の収穫祭で聖書にはない。ケルト人の一年の終わりが10月31日で、その日は死者が訪れると信じられていた。日本のお盆祭りと似ている
3) 感謝祭 アメリカで始まったもので200年余りしか歴史がない、従って聖書にはもちろん出てこない祭日
4) クリスマス ドイツで始まった太陽神のお祭り 冬至の時に光りを必要としたために行われる。

文化としてのキリスト教はあっていいのです。聖書的になるのと聖書一辺倒になるのとは違います。聖書に帰ると言うことで、聖書主義がいきすぎると裁くクリスチャンとなります。聖書にあるかないかで論議を始めてしまうからです。しかし聖書になくてもその国の文化としての行事であれば、感謝祭などアメリカ人として、自国文化を守る責任があります。

キリストを第一とする信仰があれば、私たちの価値観は揺るぎないものです。私たちの価値観をはき違えなければ、何処の文化でもキリスト教は生きていけます。日本にキリスト教が育たなかったのは、日本古来からある文化を否定して、キリスト教を伝えようとした根本主義が問題でした。日本人はキリスト教に「NO」といったのではなく、キリスト教を持ってきた外国人が外国人の価値観を押しつけたので、キリスト教を受け入れられなかったと分析します。つまり宣教師の「ああ勘違い」でした。またそれを日本の牧師らがコンテキストライズ(日本の文化にあった福音を提供すること)しなかったためです。今でもキリスト教はアメリカの宗教と思っている日本人は少なくありません。
キリスト伝道は基本に戻る必要があります。キリストのメッセージは「愛のメッセージ」です。裁かない愛、そのままを受容する愛を示すことです。あなたは隣人をそのまま受け入れることができますか?罪を悔い改めたら受け入れると言っていませんか?罪を犯し続けたら受け入れないのなら、一人として神の前に行く者はいません。私たちが罪人の時にキリストは十字架に掛かったのです。キリストのように愛するのが無条件の愛です。それがキリストの示した愛です。

クリスチャンからの質問で「悔い改めのない回心は本当にクリスチャンか」と問われました。
答えは「人がクリスチャンであるかないを裁く権利を人は所有しない」です。この質問の根底には裁く態度があります。それではキリスト教で悔い改めは救われるのに必要な条件でしょうか?
 聖書的な答えは、キリスト教で救われる条件はただ一つ、キリストの内に留まることです。誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく作られたもの、罪を悔い改めたものではなく、聖書通りに生きた人でもありません。律法は人を救う力はないからです。キリストの十字架だけが私たちを救います。私たちの罪の告白ではありません。人の業ではないからです。救われるのはキリストの内にある信仰です。 
  あなた方は恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神かのら賜物です。行いによるものではありません。誰も誇ることのないためです。(エペソ2章8、9節)
 わたしたちが救われるのは100%聖書が解らなくてもいいのです。わたしたちの行い(人間の理解を含めた行い)で救われるのではないからです。キリストの内に留まる信仰があればそれでOKです。あとは聖霊がその人の成長にあわせて、神の言葉を通して真理を理解できるように導いてくださいます。「あの人本当に福音解っているのかしら」は、私たちの心配することではありません。しかし多くのクリスチャンが杞憂しておられます。私たちの目がキリストから離れている時です。
牧師のよくする間違えも自分で罪人を導こうとすることです。神様を手伝おうとする態度です。キリストは私たちの助けが必要ではありません。実はその態度は伝道の邪魔をしています。自己反省を含めて、私たちがキリストを信じられるのは、神(聖霊)の働き以外にないからです。ですから聖霊が動きやすいように、道を開けてあげればよいのです。

結論
 私たちが行う全ての言動と行動に「愛」があるか?が問われています。
 恐れを持って行動すると人を裁き傷つけます。愛を持って行動すると、受け入れる人になります。愛は全てを許す行為を示すからです。キリスト信仰を言い換えればキリストの内にあるものは、キリストが示した第一の戒め ルカ10章27節
こころをつくし、おもいをつくし、力を尽くし、知性をつくして、あなたの神であるキリストを愛せよ。」
神を愛するものになると出てくる品性があります。それが謙遜です。
 大人の信仰の賜物が謙遜です。私たちは正しくなくていいのです。正しい方はキリスト以外おられません。正しいか正しくないかを裁くことをしなくていいのです。人間で正しい人は一人としていないと聖書にあるので答えは「みな正しくない」です。クリスチャンは罪人で許されている人です。正しいから許されているのではありません。キリストの内にあるので、キリストが正しい方故に正しくなっています。もう一度言います。正しいから許されているのではなくキリストの愛で許されています。だからみな謙遜になれるはずです。もしキリストの内にとどまればです。
 ある講演会で出席者がオーガスティンに聞きました。クリスチャン人生でもっとも大切な特性は何ですか?
オーガスティンは迷わず「謙遜です」
ではクリスチャン人生で第2番目に大切な特性は何ですか?
オーガスティンは続けて「謙遜です」
同じ人がでは先生第3番目にクリスチャン人生で必要な特性とは何ですか?
オーガスティンは繰り返し「謙遜です」
と答えました。
 では皆さんに最後にお伺いします。皆さんの人生でもっとも大切にしてきたクリスチャンとしての特性は何でしょうか?  
             お祈りします。



















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