ダブルインピュテーション とは何か


2020年お正月のご挨拶のタイトルは、

ダブルインピュテーション Double Imputation 

 まず第一にダブルインピュテーションの定義です。「キリストの義が罪人に転嫁されると同時に、人間の罪がキリストに転嫁されること」
 クリスチャンは聖書的に神の義により罪が許されています。神の義が人間に注入されたときに罪びとである人間を義と変える。この神の義は与えられたものです。インピュテーションを日本語にすると「転嫁する」と訳されていました。私たちがクリスチャンになるときには、同時に2つの転嫁が起きていると仮定されます。神の義が私たち人間に転嫁し、そして人間の罪がキリストに転嫁する。私個人では転嫁という表現よりも、注入されるという表現のほうがしっくりきます。

 ところが一部の神学者はダブルインピュテーションに待ったをかけます。神の義が人間に転嫁されることに問題はありません。神の義が私たちの心に入ってくるようなイメージです。しかし人間の罪がキリストに転嫁されるとう概念には問題があります。インピューテーションは一方的に神からの働きで、キリストの神性は影響されないと考える神学者がいます。それが私です。キリストが十字架にかかった時に、罪の身代わりとはなりましたが、キリストご自身が罪人になったのではありません。キリストは清い方で罪のない方です。屠られなければいけないのは罪のないものが十字架で罪を贖います。キリストは十字架上で罪人になったのでは罪の生贄にはなりません。つまりキリストの神性は十字架上でも変わることがなく、人間の罪で神性が失われることはないと楠は考えます。

ここで聖句を見てみましょう。ダブルインピュテーションをにおわす聖句です。

 第二コリント521節 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

 神との和解はキリストの義が私たちに与えられたと同時に、罪を知らない方が罪とされたとあります。キリストに私たちの罪が帰属し、それを私たちの代わりに罪とされたと理解します。キリスト自身が罪になる、または人の罪が転嫁されるという解釈ではありません。イメージ的には罪の咎をぬれぎぬのようにかぶったのであり、根本的にキリストは神性を失ってはいません.ギリシャ語でも on behalf of our sin 罪の代わりという表現です。罪の代わりであって罪とされるという表現は誤解を招きます。

 そんなことどうでもいいでしょう。という方がいらっしゃいますが(私の家内のように)キリストが私たちの罪の代わりとなり十字架にかかったことをどれだけ私たちが理解できているのでしょうか?そして神の義により私たちが義と認められる奇跡を本当に感謝しているのでしょうか。

 キリストは永遠に変わらぬ神の一人子として、私たちの罪の代わりに生贄となりました。その生贄は一つの傷もない完ぺきな生贄として十字架にかかったのです。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく永遠の命を受けるためです。神の義は一方的な神の恵みで転嫁されましたが、それにともなう神の支払った代価は一人子の命でした。

 楠は転嫁される神の義をただ感謝するのでは、神の栄光を現すことにはならないと感じています。この概念は今の日本の教会にあてはまります。キリスト教会が日本の社会から取り残されていったように見える21世紀の日本。残念ながら教会がchangeのできる転換期(ターニングポイント)は通り越しています。一部の教会は福音伝道よりも、教会組織の保身に迷走しています。アメリカから帰国して今年ではや6年目になりますが、細々とついていた福音の光が一つ一つ消えてゆくようです。会社も教会も同じです。現状があるのは現執行部の責任です。日本に必要なのはリバイバルではありません。現実的には教会のサバイバルが課題です。御子の義を転嫁しなければいけないのは、もはや罪びとではなく教会という組織のようです。

 
新しい年にダブルインピュテーションで一考察いたしました。

 
在主

2020年 1月 主日 

                    株式会社つやげん代表取締役                                        

                           昔牧師今社長 楠 秀樹
P.S. 祈りのリクエスト 日本でも私たちが夫婦で参加できる教会が与えられるようにお祈りください。言葉の違いよりも文化の違いを感じます。日本の文化の違いではありません教会文化の違いです。日本風の礼拝はやはり私たちにはしっくりきません。インランドエンパイヤ教会が本当に懐かしく感じます。会社の仕事が一段落したら、教会探しではなく、教会開拓になるかもしれません。なぜならば日本に私たちを受け入れられる教会がありません。この年齢では簡単なことではないでしょう。インランドエンパイヤ教会を立ち上げたBill Hara牧師は62歳で開拓しています。今私がその年なのです。may be It’s never too late to be a pioneer なのでしょうか。うちの家内はmaybe もないと言っています。アメリカでは苦労を掛けたので無理もないでしょう。
 
 
 
 

 

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