むさぼりの罪
本日の聖句 出エジプト記20章17節
説教タイトル 10番目の戒律 むさぼりの罪
今回の日本語説教は英語の説教の翻訳版です。普段は自分のメッセージを日本語に翻訳しませんが、前回の教会学校でCovetousness(むさぼり) について話が出ましたので、調べていましたところ、むかしの説教が見つかりました。自画自賛ですがなかなかいいことを言っていました。そこで翻訳するようにと示されました。英語版のほしい方はお申し出ください。翻訳ではない恵みがあります。基本的にオリジナルの読める方は英語版をお勧めしています。
イントロダクション
2年前に友人の出産でニューポートビーチの病院へ行きました。そこで車を病院の駐車場に入れたのですが、周りにはスーパーカーばかりが停まっていました。ポルシェカレラコンバーチブル、メルセデスベンツS600そしてバレーパーキングには堂々とロールスロイス社のファントムが停車してあるのです。千恵子に「ここは病院というよりまるで高級ホテルだね」と言って病院に入りました。中もすごい豪華で、私たちが行っているカイザー病院とは格の違いを感じました。帰りにあのロースルロイス(右の写真)見た?と聞いたら「見てないし興味もないわ」とそっけない返事、豪華客船のような車を見逃すはずがないのにと不思議で仕方ありませんでした。
彼女は人のものに興味を持たない、またジェラシーを感じないタイプです。私は逆にフリーウエイでBMWが走っていたら必ず運転手をチェックします。もし自分より年上のおじさんだったら、「頑張った人なんだなー」と思います。しかし運転手が自分より年下だったら、「なぜあんな若造がBMWに乗れるんだ?人生なんて不公平なんだ」と心の中で嫉妬する自分がいます。学生らしき男がポルシャ911に乗っていたら無性に腹が立ちます。親のスネをかじってと勝手に決めつける自分がいます。つまらないことで、牧師が嫉妬するのですね。たぶん私だけでしょう。他の牧師は人間ができているか、本心を言えない立場なのか。ただ単に車に興味がないのかもしれません。
この感覚は教会同士でもありました。私の夢はこの小さな教会が礼拝出席者でいっぱいになり、「楠先生もう入る場所がありませんどうしましょう」という会話をすることです。同じ町にある3000人が入るメガ教会を見ると少なからず嫉妬する自分がいます。数だけが教会の成功になりませんが、牧師会でもメガ教会の牧師と小さな教会の牧師では扱いが違います。あの先生の教会は何千人もいると牧師同士で話題になります。大きな教会にすることが目的ではありません。福音伝道することが教会の目的です。建前ではわかっていますが現実はそうなりません。シカーセンシティブ教会(リックワオーレン牧師)などは大きくなる条件がそろっています。21世紀の教会は彼の教会のようになれば成功するでしょう。それは個人の必要が満たされるからです。しかし私の考える教会とは、御言葉の上に建った教会で、個人の必要と御言葉のバランスのとれた教会を随時保っていけるようにすることが、教会の本来あるべき姿であり使命であると信じています。
さて本日の主題に入りましょう。
モーゼの十戒の最後にある言葉がCovetousnessの意味はなんでしょうか?神が人間に十戒という戒律を与えた理由は、人間の本質に関する欲望への警告でした。それは確かに人間一人一人が欲するものでありまた回避できない罪の性格を表すものです。ヘブル語ではむさぼることをchamad美しいものを喜ぶ思い、素晴らしい物への願望、欲望、価値あるものを欲する思い、等に訳しています。神は人間が肉的思いを持つことを解っていて「むさぼるなかれ」という戒律を与えています。それは人間は罪びとであるからです。罪がなければ隣人のものを欲することはしません。人間の罪びととしての証明が他人のものを欲する思いです。
パウロは新約聖書ローマ署13章9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒めがあると旧約聖書を指して言っていますが、ほかのどんな戒めでも、「あなたの隣人をあなたのように愛せよ。」という言葉の中に要約されている。と言いました。否定的な律法を新約聖書では肯定的な戒律で表わしたのです。もし隣人を自分のように愛することができれば、むさぼることはしないからです。
この定義を21世紀に生きる私たちに照らし合わせて考えてみましょう。物質主義に生る私たちの価値観の中心は、男性であれば次の月曜日のフットボールの試合のこと、2013年型の車のこと、女性であれば今秋流行の着物のことを考えていませんか?
最近隣人がフォードを新車で買いました。白のとても格好がいい車です。私はそれを見て興味がわいたのでどんな性能の車なのかをネットで調べました。確かに小さなエンジンですがダーボチャージでよく走りそうです。私であればフォードの車は買いませんが、隣の芝生は本当に緑に見えます。新しい車を運転できる隣のおじさんに嫉妬しています。
この世で自分の立場がどこにあるのか?それに満足しているか?をチャレンジされていませんか?むさぼるというのはどうして罪になるのでしょう。だれにも迷惑はかけていませんし、傷もつけていないのです。ただ自分の中にある思いのはずなのですが、神にとっては苦々しい思いとしてうつるのが「むさぼりの罪」です。
この答えはむさぼりの罪は偶像礼拝と同じ罪だからです
偶像礼拝とは人間の手で作った像を拝むことだけではありません。心で犯す偶像礼拝があります。神以外を拝むことが偶像礼拝です。むさぼりの罪とは、神以外のものを第一にすることで、自分の心に神ではないもう一つの偶像がいることを表します。世の中には自称クリスチャンがたくさんいます。「教会にはいかないけれど私は神を信じている」と豪語される方です。しかしそこに神を第一にするコミットメントはありません。あるのは自分の都合を第一にする事なかれ主義です。むさぼる方は常に自分の都合を優先します。仕事が忙しい、子供の用事がある、親せきが来ている、疲れて朝起きれない、いろいろ理由をつけて教会への出席を拒んでいます。安心してください教会へ行かないこと自体では罪になりません。しかし教会に来れない理由が自己中心的であれば罪になります。それがむさぼりの罪つまり神を第一としないで、自分の都合を第一にしている罪です。未信者であれば問題ありませんが、キリストを信じる信仰告白している方であればむさぼりの罪に定まります。(今これを読んで心につっかかりがある方はすでにguityです)
むさぼりの罪は私たちの所有していないものを持つ方を嫉妬します。自分より幸せな方を見て自分も幸せになれる方と「なんであの人だけ幸せなの」と嫉妬するタイプがいます。むさぼりの罪が嫉妬の罪を誘発します。罪びとは自分にないものを持つ方へ嫉妬心を持ちます。あの人が持つべきではないとさばくのが嫉妬です。わたしも若い人がBMWに乗っているのを見るとき、同じ罪を犯しています。正直どうしてあの若者が乗れて、50過ぎの私が乗れないのかと思います。私がこれ以上罪を犯さないようにするにはBMW335i(またはM3)を買うか献品してもらう方法がありませんが、そのまえにむさぼらないように神を第一にするほうがより現実的聖書的牧師的?でしょう。
オレゴン州の大学に行っていたときに、3000人のメガ教会の牧師がポルシェに乗っていたところ、牧師が高級車に乗ることはまかりならんということを言われ、牧師につまずく人が出てきたといわれました。そこで彼は乗っていたポルシャ≪献品車≫から、貧乏人のポルシェといわれるVW(カブトムシ)1968年型のものに乗り換えました。私であれば堂々とポルシェに乗っていましたが、この牧師はクリスチャン的思いやりで車を乗り替えました。むさぼることをしないでもむさぼるように見られるだけでOUTなのですね。
オレゴン州の大学に行っていたときに、3000人のメガ教会の牧師がポルシェに乗っていたところ、牧師が高級車に乗ることはまかりならんということを言われ、牧師につまずく人が出てきたといわれました。そこで彼は乗っていたポルシャ≪献品車≫から、貧乏人のポルシェといわれるVW(カブトムシ)1968年型のものに乗り換えました。私であれば堂々とポルシェに乗っていましたが、この牧師はクリスチャン的思いやりで車を乗り替えました。むさぼることをしないでもむさぼるように見られるだけでOUTなのですね。
マタイの福音書5章27-28節で姦淫してはならないと命令しています。しかしキリストは「誰でも情欲を持って女を見る者は、すでに心で姦淫の罪を犯してたのです」と言われました。これでは正常な成人男性全員が何らかの形で姦淫の罪を犯していることになります。人はどこかでむさぼることを示したのがローマ書の3章23節「すべての人は罪を犯したので神の恵みを受けることができない」と言われる通りです。むさぼりが姦淫の罪を誘発することを示しています。
私たちの心の思いが、神にとってどれだけ大切なのかを示したところです。罪は表面的なことではなく内面的にある思いも含めて罪になります。姦淫は肉体の罪ですが、神の見ているのは心の思いです。
ユダヤ人の間では、姦淫の罪は盗みと同じだと考えられていました。10番目の戒律はユダヤ人にモラル的清さを保たさせるために制定されたと考えられていました。隣人の妻を情欲を持ってみることがモラル崩壊の始まりだといったのです。これは後にユダヤ国第2の王ダビデによって証明されました。彼の犯した姦淫の罪は、むさぼりの罪がはらんで犯した罪で、そのあとに彼の治めるユダヤ国は政治的にも不安定になりました。彼の流した無実の血によって、彼は夢であった神殿建築ができなくなりました。10戒の10番目が与えられた目的は、神との関係を正常に保つためです。つまり21世紀の私たちがキリスト信仰を守るためです。それは究極的なむさぼりの罪は偶像礼拝でとなるからです。十戒の第一の戒めは10番目の戒めを守ることによって成就されます。10戒の与えられた目的は神との関係の正常化であり、それはイエスの十字架の贖いによって完成されました。
結論
本日はむさぼりの罪について話しましたが、むさぼりとは物質的なものではなく、権力、健康、名誉へのむさぼりも含まれています。私たちの心が本当に何を求めているのかを吟味することをチャレンジされています。求めるものが永遠に価値のあるものか?一時的な名誉や誉れなのか?ここにむさぼりの罪に対する神の答えがあります。英語でダイエットを奨励するのに、what we are, what we eat. ですが、私は霊的ダイエットはwhat we are, what we really seekだと思います。あなたは今何を求めていますか?神ですかそれとも生活の安定ですか?心の平安ですか?プロモーションですか?むさぼる原因は心にある高慢です。学歴も能力もあるわたしがどうして昇進できないの?とつぶやいていませんか。
下の聖句のように
第2コリント人の手紙12章9節
しかし私の恵みはあなた方に十分である。というのは、わたしの力は,弱きのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
クリスチャンが唯一誇ることができるのは富、名誉、健康、ではなくキリストにある弱さです。弱さを誇るクリスチャンとなっていますか?
お祈りします。
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