マタイ7章 裁いてはいけない理由
マタイの福音書 7章1-7節
説教主題 「裁いてはいけません」
内陸帝国インランドエンパイヤ日本人教会 楠 秀樹牧師
1 さばいてはいけません。さばかれないためです。2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
1)いったいキリストはだれに対して、裁いてはいけないと話しているのでしょうか?
未信者ではなくクリスチャンに対して語っています。3節にある兄弟達という語り口がそれを示しています。教会内での問題が浮き彫りにされています。5節では厳しく裁くものを偽善者と指摘しました。
2)ではいったいどうしてこの話をキリストは信徒らにしたのでしょう?
最近は70年代に盛んであったecumenical movement(世界教会主義運動)が再燃して、違う教派や教団または宗教(イスラム教 ヒンズー教 仏教)とも一致することが世界の平和に貢献する正しいクリスチャンの心構えというムーブメントが出てきています。多種多様の神学論理でお互いに隔たりを持つのは大人げないと言うことでしょう。しかしこの傾向は神からでたものではありません。もしそうであれば16世紀にローマカトリックから枝分かれしたリフォーム運動そのものが無駄なことになります。400年前に分かれた教派とまた一緒になることが本当に神の計画でしょうか?実際にはエキュメニカル運動は神の意志とは正反対の社会現象です。
エキュメニカル運動はお互いを裁かないための働きであると言われています。しかし私たち福音派は他の宗派を裁いているのではありません。Verify(検証)しています。これは裁くのとは基本的に違う姿勢です。1)で示したように、裁きあうことを禁止したのは教会内での意見の違いです。特に1世紀の原始キリスト教ではユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に、教義的な違いが出てきたことを示し、キリストは互いの目のちりという表現でお互いの罪を現しています。
お互いに裁かないようにするのはクリスチャン同士のことです。他宗教とくにカトリックとの違いは逆にしっかりと神学的違いを把握する必要があります。カトリック教徒がクリスチャンと定義されること自体が間違いです。ローマ法王を「罪を犯さない神の使者」として祭り上げている団体と一緒にされることに抵抗があります。楠はカトリックを偶像礼拝をする「世界一大きな異端の宗教団体」と定義しています。その証明はカトリック教会に行けば解ります。キリスト像 マリヤ像 セイント像 彼らが拝んでいるのは神ではなく、これら手で造られた像です。十戒(私以外に何者も拝むな 像を造るな)が守れていない宗教団体と一緒に神は礼拝はできません。
サタンは終わりの日にすべての宗教を統一するように働きます。それが反キリストの出現で成就します。つまりエキュメニカル運動は終わりの日のサタンを助ける計画であり、すべての人が反キリストを拝む準備をしているといえます。一緒に神を礼拝するというきれい事は表向きで、実際は反キリストを迎え入れる準備としてエキュメニカル運動があります。クリスチャンであればそのくらいのことを見抜いてほしいと願います。どうしてカトリックと一緒に礼拝できないか?終わりの日には教派や宗教の枠を超えたキリスト教指導者が出てきます。終わりの日の前兆としての偽りの一致がそこにあります。すべての教会と宗教が一致して神を拝むという行為自体が反キリスト的です。偶像礼拝者と一緒に礼拝するエキュメニカル運動は終わりの日の反キリスト運動です。
また進化論を信じる信徒も偽りの一致を勧めるものと同じ罪を犯しています。進化論という偽りの論理を信じ、神の創造を信じないからです。神がすべて(目に見えるもの見えないもの)を6日間で創造しました。(創世記第1章)聖書にあるとおりです。 クリスチャンで進化論を信じるのは矛盾した2つの価値観を持っておられるかたです。また残念ながらその矛盾に気がついておられないことです。科学で証明できないものは信じない方がクリスチャンでおられます。セキュラーヒューマニズム(人間を第一とする主義)的な知的高慢で真理から離れている人です。聖書は科学の本ではないので証明する根拠がありません。また聖書が科学と矛盾することもありません。現代科学が聖書に追いついていないだけのことです。聖書は真理です。科学は真理ではありません。進化論を容認するクリスチャンは神の示した真理(聖書)に敵対しています。この罪は悔い改めが必要です。神のもっとも嫌う罪はサタンの罪と同じ高慢の罪です。
科学者や知識人は自らを知識があると思いこんでおられます。知識人という高慢をキリストご自身が偽善者と定義しています。マタイの箇所です。(マタイ7:5)自分の目の中にあるちりが見えていない状態の方です。
信仰とは目に見えないものを確信することです。
(ヘブル11:1)
自分の理解を超えること、6日(一日24時間)での創造 処女降誕、ノアの箱船の奇蹟、キリストの復活 聖書にあることをおとぎ話(myth)と捕らえるのがリベラル派クリスチャンです。人間の知識に頼る傾向が高慢であり、無限の神の知恵を知ることは有限の人間にはできません。十字架に架かったキリストの贖いは、私たちの罪のためであることを信じられますか?キリストを信じる信仰があれば私たちは救われます。この教義に必要なのは自らを神に委ねる信仰です。すべて聖書の内容を理解してクリスチャンになる人はいません。それは不可能だからです。「聖書が解ったらクリスチャンになる」のでは、一生かかってもなれません。そこで解ったところを信じる信仰で救われます。1%でもキリストを信じる信仰があればその信仰で救われます。99%のダウト(疑い)よりも1%のキリストを信じる信仰で救われます。
V6聖なるものを犬に与えてはなりません。
犬とは?だれを指しているのでしょうか?
ユダヤ人にとって 犬は異邦人の象徴です。汚れたものとして異邦人が犬に喩えられています。これは真理から放れた者を指す言葉です。この後に出てくる「豚に真珠」と同じです。聖書の真理を示されているにもかかわらず、その真理を意図的に無視する者が豚であり犬です。
当時のパレスティナで犬は家で飼われていません。ゴミをあさる汚い動物でした。豚もワイルドピッグといわれる野生の豚を指します。パレスティナ地方に多くいた豚です。もっともユダヤ人は豚を食用にはしません。豚は律法的にも汚れています。真理から離れている者の姿がこの犬と豚です。この犬と豚が時々教会に入ってきて、裁くことが起きます。
福音を語るときに神を全面否定する者への忠告です。聞く耳を持たない者にとって福音は豚に真珠です。真珠とは福音です。本当に価値のあるものです。それを軽々しく未信者に投げるのは豚に真珠を投げるようなものと比喩しました。福音を頑なに否定するものにあえて伝道する行為を神は喜びません。福音は真珠のように尊いもので軽んじられてはいけないものです。
またその逆に周りの未信者に遠慮して、自分はクリスチャンですという人も、キリストの十字架を理解していません。私たちは尊い十字架の贖いで買い戻されたものです。自信と誇りを持ってキリストの証人として福音を語らなければ、福音の価値が理解されません。福音を語るときに遠慮をする人への警告でもあります。すばらしい永遠の命(福音)を語るのに何の遠慮がいるでしょか。私たちは言論の自由が保証されているすばらしい国にいます。もっと大胆にキリストの内にある平安と恵みを語る生きた証人となりましょう。
聖書は互いの罪を言い現わすように教えています。(1ヨハネ1:9) お互いの罪を言い表すのであって、裁くのではありません。お互いに罪を告白することが清めに必要です。救いは信仰により与えられます。以前罪を告白しなければ救われないという信徒が教会にこられました。しかし罪の告白で救われるという教えは聖書にありません。私たちの告白は、イエスキリストを神として信じる「信仰告白」です。私たちが救われるのは信仰です。告白で救われるのではありません。永遠の命は行い(罪の告白や洗礼)で得られるのではありません。キリストを信じる信仰により無償(ギフト)で与えられるものです。
聖書に書かれてあることで、理解できない箇所は、神に委ねることが必要です。答えはすぐには与えられないときがあります。また人生で神は様々なチャレンジを与えるときがあります。それは本当は私たちが神に愛されているからです。最近友人の娘さんがガンの診断を受けました。どうして結婚前の若い娘が化学治療という苦しい治療をしなければならないのか?苦悩と葛藤の日々であると想像し祈っていました。それは同じ病気を家族に持つものとしてのEmpathyです。しかしその家族と一緒に食事をした時に感じたのは、父親に神の平安が与えられていたことです。それはキリストの内にある平安です。言葉にはできない神の臨在が彼の家族にありました。人知をはるかに超えた神の恵みが家族に満ちていました。あれほどの信仰の一致を私は見たことがありませんでした。私たちに必要なのはこの神の恵みに100%生きる信仰生活です。 (Live by grace, Live in Grace)
どのようにしたら自分をキリストに委ねることができるのでしょうか?キリスト教は委ねる宗教です。アブラハムがイサクを委ねたように、自分のもっとも大切なものを神に委ねることができますか?今日真理の神であるキリストにご自身を委ねてみませんか?これまでの悩みや問題の解決方法が、すべての造り主キリストに委ねる信仰で与えられるでしょう。なぜなら聖書に求めなさいそうすれば与えられます。(マタイ7:7)と書かれてあります。これは神の約束です。ここでは物質的な必要を求めているのではありません。信仰による神を求める求道心を指しています。私たちはキリストの愛と恵みとに満たされます。キリストの愛はいつも受け身で示されます。受け取るものは2000年間変わっていません。罪人が無償で受けることができるものです。それが神の愛と永遠の命です。あなたも今このギフト(キリスト)を心に受け入れることができます。裁きあうことから愛し合う信徒になるのは、いま一度神に自分を委ねる信仰を吟味することが必要です。あなたは今あなた自身を何%神に委ねているでしょうか?
お祈りします。
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