人はどうして人を裁くのか
ローマ書2章1節ー6節
説教タイトル 「人はどうして人を裁くのか?」
インランドエンパイヤ内陸帝国日本人教会牧師 楠 秀樹
ウメともも
以前飼っていた最初の犬の名前がさくら、そこでその後から家族になった二匹の猫の名前が、ウメとももになりました。今年で14歳になります。しかしこの猫たち一度も病気をしたことがありません。本当に丈夫な猫です。その代わりに先月4年飼っていた犬ビリーが心臓病でなくなりました。この犬はレスキュー犬で、うちに来たときは全身あざとただれものでたいへん苦労しました。目も見えず耳も聞こえない老犬でした。しかし私のうちに来て平和な日々を過ごすことができたのでしょう。静かに眠るように死んでいきました。この犬は病院を行き来するたいへん手のかかる犬だったので、14年間病気をしない皆勤賞の猫達は本当に親孝行です。
ウメとももを見ていると、神様の不思議を見ているようです。いるのかいないのか解らないウメと、いつもご飯をせがむモモ、対照的な猫たちに毎日いやされて過ごしています。彼らがあとどのくらい皆勤賞を続けられるのか心配ですが、食べ物にも気をつけて最近は、無添加で無農薬のねこめしをあげています。最初は気に入らなかった猫らも、今はなれて食べています。不味いのであればかわいそうですが、彼らには健康で長生きしてほしいと願ってのことです。
人間にも動物にも寿命があるのはどうしてか知っていますか?子供に「どうして人は死ぬの」と聞かれたときにあなたは答えられますか?聖書からその答えを出すことができます。
人間が最初に造られたときには、寿命はなく永遠の命を持って造られました。しかしあることを境にその命にリミットが課されてしまいました。それがすべての命あるものに寿命を与えたことと関係してきます。
始まりがあるものには終わりがあります。すべて創造されたものは、創造されたときから死に向かっています。宇宙も地球も人間も動物も昆虫も寿命があります。ハエの寿命は17日、猫は16年、人間は日本人が平均82年アメリカ人は78年です。どうして私たちは死ぬのでしょうか?考えたことがありますか?
聖書には最初に造られた人間アダムとイブの話があります。おとぎ話ではありません。実在した人物で彼らがいるから私たちが今ここにいます。ユダヤ教歴では今年は5773年です。つまりユダヤ教的に見れば5773年前にアダムが造られたことになります。
人類の歴史は私たちが思うほど古くはありません。人は猿が進化してできたのではなく、神がアダムを土から造られ、アダムは妻であるイブを神から受け、二人は一緒にエデンの園に住んでいました。創造された直後は永遠の命を持って地上に住んでいました。
神の持つ人間へのオリジナルプランは、神と共に創造物(地球)を支配することでした。しかしこのプランは天使長であるルシファーによって思わぬ展開となります。神が人間を造ったときは、神のイメージによって人間を造られました。つまり神の持つ永遠性を持って造られたのが人間です。イメージとは姿形ではなく、神の持つ霊性が人間も同じであるということを示しました。実際に神は霊ですから、物質のイメージは存在しません。
アダムは自由意志を持って、神の言葉に従っていましたが、彼の持つプライドが彼の命を有限なものに変えさせてしまいました。このプライドが人間の持つ一番の罪の元です。デイブコール牧師は「プライドはすべての創造の前に存在していた」といっています。これはプライドの元祖サタンの存在が神が地球を造る前からあったことを示唆しています。日本人がキリストを信じられないのも99%の日本人が持つプライドが原因です。一言で言うならば「私は悪く(罪は)ない」症候群です。もし罪が人間になければ、キリストの贖いも復活も十字架自体必要ありません。勝手に十字架に架かったかわいそうな宗教家がキリストとなり、人類はキリストの必要性を否定します。このようにキリスト教はわかりにくいという人は、自分がどれだけ罪深い人間かを理解していないのです。しかしその人に仏教の教えが何であるかと問いかけてもまともに答えは帰ってこないでしょう。自己中心で生きている限り、その人にどのような宗教も時間を割く価値はありません。葬儀の時に自分の家の宗教が何かを知るケースがほとんどです。
さてアダムが罪を犯したので、全人類は罪人とされてしまいました。それはすべての人類はアダムからでているからです。アダムの罪が私たちを罪人にしています。人間は後天的に悪ではなく、先天的にすでにワルです。
人間に罪がなければ永遠に生きることができます。罪は人間に寿命を与えました。罪=死です。この方程式をリバースしたのがキリストの十字架です。永遠の命は、その罪のために死んだ人を受け入れる信仰で与えられるようになりました。キリスト=命です。罪の身代わりがキリストの十字架です。誰かが払わなければならない私たちの借金を返してくれた人と理解すれば解りやすいかもしれません。
人間は生まれながらにして借金を持って生まれてきています。先祖が造った借金により、代々まで返済を強いられる呉服問屋の跡取り息子のようなものです。借金のある呉服屋に生まれてこなければ、借金のために苦労することはありません。しかしその呉服問屋の息子のために、イエスキリストが代わりに借金を肩代わりしたのが、十字架といえば解りやすいでしょうか?
いずれにしてもキリスト教がキリスト教たる由縁は、人間に罪があることを教え、罪の贖いがキリストによってなされたことを知らせることです。しかし「ピン」とこないのが日本人の99%です。「あなたは罪人」といってピンとこないのは、自分の罪が活性されていないからです。これは聖霊の働きがないと解らないのです。クリスチャンになれるのは、自分がどれだけ罪人であるかを理解した時です。進化論を信じる日本人は基本的にキリスト教を信じることができません。罪を犯す対象の神が進化論には存在しないからです。罪は罪を犯す対象の神がいて成り立ちます。私たちは罪をだれに犯しているのか?ここに被害者の神が必要とされます。究極的にすべての罪は神に犯していると考えます。罪の被害者である神と加害者の人間、しかし加害者意識が日本人にはありません。日本人は高慢(プライド)で自分の犯している罪が見えないのです。加害者でありながら、神(被害者)の存在さえ否定しています。神道では人間が生まれながらにして善人です。子供に罪がないと教えるのが日本教です。日本人はこの環境で育っているので、人間論が根本的にキリスト教とは正反対です。
では日本教の環境で育っている日本人はどうしたらアダムの犯した罪を認めることができるのでしょう。人間の罪は子供を見ると解ります。嘘を教えなくても嘘をつくのが子供です。生まれながらにして罪人だからです。日本教が定義するように、もし子供に罪がなければ、嘘をつくことはしないでしょう。しかし親が教えなくても、嘘をつきや偽りを覚えるのが人間の子供です。子供のいる親なら人間がいかに罪深いかが見えているはずです。自分の子供を愛することに葛藤があるのも罪があるからです。罪がなければその子を無条件に受け入れ愛することができるのですが、それができていません。まして他人の子供が嘘をついていたら、許すことは考えずにいかにその親にその子が悪いかをしらせようとするでしょう。あなたがその子とその親を許せないのは罪があるからです。これは子供に限らず、親、配偶者、上司、牧師でも同じです。自分の過ちは目に入らず、他人の犯した罪は許せません。このような矛盾だらけの人間は罪の結果を日々の生活で体験しています。
罪のない神は罪のある私たちを十字架で許しました。それは罪のために死んだキリストを信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです。永遠の命は最初のアダムでなくし、後に第2のアダム(キリスト)によって再び与えられました。キリストを信じる信仰は、私たちが罪人としての自覚が芽生えて与えられます。「キリストを信じます」という信仰告白は、自分が罪人という告白をするのと同じです。また私たち罪人をそのまま受け入れてくださっている神の愛は無限です。
人間は罪があるので裁きます。罪のない神は裁きません。 お互いに許し合いましょうというローマ書の言葉は、お互いに無条件でキリストの愛を実践しましょうと理解できます。しかしこれができないのです。互いに愛せない葛藤がある方がクリスチャンです。そんなことどうでもいいわと自己中心がノンクリスチャンです。罪の自覚が芽生えるとキリストの言葉が心に生きてきます。「私はこれでもクリスチャンかしら」と思うことがありませんか。大丈夫です。ノンクリスチャンははじめからそのような心の葛藤が起こりません。自分が本当に救われているのか神に受け入れられているのか?葛藤があればそれがクリスチャンとなっている証拠です。信仰は私たちに自分たちが何者か(罪人)を自覚させます。
「私こんな信仰でいいのかしら」の答えは、それでいいのです。自覚があるのはクリスチャンとして成長しているからです。キリスト信仰とは神に自分を委ねることです。プライドが委ねることを妨げます。最初の人間アダムのように、自分でやろうとします。あなたはどちらですか?
キリスト信仰の難しいところは自分でイニシアチブを取ることを、プライドとして位置づけます。神の業が私たちを通して行われるには、自分からする行いではなく、神に用いてもらう信仰が必要です。
人間はすべてを神に委ねることができません。これも罪の自覚症状です。自分からイニシアティブを取るのが罪人です。信仰は不完全な自分を神に委ねます。罪はインデペンデントになりたがります。日本人を代表する態度がこのプライド意識「神がなくても私は生きてきたしこれからも生きてゆける」という高慢な態度です。しかしこれが神なしでは何もできないと変えられるのがキリスト信仰です。私たちはその途上にあるので信仰生活で葛藤が起こります。葛藤は信仰のある故の症状です。皆さんはどのような葛藤を日々されているのでしょうか?もしいまあなたの生活に何の葛藤もなければそちらの方が牧師としては心配ですぞ。
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