神があなたを造った目的は何か?
聖句 創世記1章1節 「はじめに神は天と地を創造した」
クリスチャンでも多くの人は、これまでの進化論教育の影響から、正しく聖書的な創造論を学ぶ機会が与えられていません。クリスチャンは進化論と創造論をどのように、信仰を持つものとして理解しなければならないのでしょうか?日本人は基本的に文部科学省の方針で、進化論が科学的な論理で「事実」であるかのように、子供の頃から教わっています。
私も最初に進化論を学んだときに、学校から帰ってきて母に「ねえ人間って猿から進化したんだって」というと、母はポロっと「そうだねおまえをみていると間違ってはなさそうだね」冷酷な母親の一言でした。それ以来進化論に反感を持ちました。と言ってもそれに変わる論理を学校で教えていませんので、日本人であれば進化論を信じるように洗脳されています。
基本的には進化論を唱えるには、最初のエネルギーがどこから来たかの答えを出せる科学者がいません。ビックバン論による宇宙の創造においても、最初にどこから爆発するエネルギーが来たのか?最初に宇宙の元となった物質はだれがおいたのか?無からの創造は科学では証明できないからです。従って進化論はサイエンスとして最も科学的でない論理であるといえます。(進化したであろうという証拠はなく、進化はするという信仰が必要です)
日本文化で育った宗教家のほとんどは、世界がどのように創造されたかの答えを持っていません。日本人の宗教の中で創造論を唱える教えが少ないのは、日本人の世界観が欧米のそれに比べて未熟であるからでしょう。キリスト教を元に育っている欧米の価値観とは違う次元で動いています。物質の継続性(時間とともに進化する)を謳うのが進化論で、日本の宗教のほとんどが、進化論理を基調として論理が組み立てられています。物質がインテリジェントデザイナー(ID)に造られたという概念はなく、物質はもともと「そこにあった」の前提で動いています。これでは宗教と同じで、そこにあった という信仰が必要になります。科学では説明できません。進化論は科学ではなく論理的には説明できない宗教のカテゴリーに入ります。
旧約聖書をみるとその答えが最初に提示されています。聖書はすべての始まりを人類に示した本です。
創世記1章1節 まずはじめに神が天と地を創造された
この原語ヘブル語では、この一節に7つの言葉で表現され、神の創造の始まりが描かれています。
はじめにの原語ヘブル語(bereshith)は、創造された宇宙全体に始まりがあったことを示しています。宇宙の始まりの始まりという言葉は。「最初に」とも訳せます。最初に何があったのか?最初の始まりはなにか?を示しています。またこの言葉は全ての始まりを示すと同時にもう一つの重要な意味を示唆します。それは初めがあるものにはすべて終わりがあるという概念を含んでいます。この最初に造られたものが、どのような最後を迎えるかが書かれてあるのが聖書です。
始まりのあるものはすべて終わりがある。宇宙に限らず、私たちの周りにあるすべてのものには、始まりがあり、終わりがあります。(イザヤ書65章17節、黙示録21章1節)はじめを示す聖書は終わりを示し完成されています。この世にあるすべてのもので不滅なものはありません。造られたものはいずれすべて滅びます。しかし造った方は滅びることはありません。どうしてでしょうか?神には始まりも終わりもないからです。神は不変不滅です。そして神の特性である「愛」も不滅です。「神が私たちを愛する」は永遠に変わることがありません。
ヘブル語の神(elohym) 文法的には複数形を取っていますが、意味は単数形で表されています。原語では神 EL の複数形ですが、動詞barahは単数形で現されています。
最初にすべてを造られた神は、三位一体を示す複数で創造をしました。創造は共同作業です。
父なる神が創造のイニシアティブを取り、子なる神イエスが創造を実行し、聖霊なる神が創造を見届ける作業をしてます。このように創造は一人の仕事ではなく、三位一体の神の業を示しています。
聖書は神が最初にすべての創造の前にいたことを示しています。未信者の心の叫びは「いったい神はこの世に居られるのか」です。聖書では まず初めに神が と宣言しています。神の存在を示したのが聖書です。創造の最初に神がいたことを示しています。聖書では神の存在を証明することをしていません。神の存在を宣言しています。
イエスに人々はあなたは誰ですか?と質問されたときに、彼の答えはこの創造の神を示しています。「私はある」と答えています。宇宙の創造の前から、すべての始まりの前から存在し、永遠から永遠におられる「わたしはある」の方が神です。
はじめのあるものには終わりがあると学びました。ですから神にはじめがあれば神にも終わりがあります。しかしはじめも終わりもない「私はある」の神が聖書の神です。この神が私たちの罪のために十字架に掛かられます。人となってこられたのが2000年前に生まれたイエスキリストです。キリストは生まれる前から「ある」方です。詩篇96章5節 「まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主(YHWH)は天をお造りになった」
はじめに神は天と地をお造りになった。ここで使われている動詞造るbarahはすべての物質は無からの創造を示してます。無からものを創造することは、物理的には不可能です。私たちの目にするもの手にするものすべては、何らかの物質の元素があってできたものです。しかしbarahの創造は、フィアット(イタリアの車の名と同じ)で無からの創造を示しています。神を主語にbarahが使われているのは3つのケースがあります。1.神が宇宙を創造するとき 2.神が命を創造するとき3.神が人間を創造するときです。
人間を造るときの神の思いと宇宙全体を造るときの神の思いは一緒です。つまり、人間一人一人の命は宇宙にも勝る尊い価値のあるものと理解できます。それだけ人間の魂はおもいのです。自分では命をつくれません。神により造られたのが命です。ですから本来は自分勝手に命を無駄にはできません。人間は命を捨てる資格はありません。命は神により造られたもので所有権は人間にはなく神のものです。私たちは自分の意志で 私は生まれるぞ と言って生まれてきた人間は一人もいません。神により宇宙のできる前に計画され造られた創造物です。生まされて来ているのが人間であり命です。
日本では自殺者が昨年3万人を超えました。これは一日平均90人が自殺している数となります。交通事故の死亡数が7千人ですから、4倍以上の人が自殺している勘定です。この自殺を止める手段はほかの宗教にはありません。自殺が悪いことであってもそれがどうして悪いかを説明できないからです。一般的に日本人は命の所有権が人間にあると考えるので、自分の命をどのようにしてもよいという人生哲学をもとに自殺を肯定します。また妊娠中絶できるのも、自分の子供という概念から堕胎します。しかしおなかの命は神の創造物であり所有権は母親にはありません。おなかの子供も一人の人格のある人間です。キリスト教では神によって造られた命は、造られた方に所有権があると定義しますので、殺人を禁止する十戒の「殺すなかれ」は、中絶や自殺する当人にも当てはまります。
聖書はただ殺すことを禁じているのではなく、どうしていけないのかを説明しています。神の造られた命はこの世と同じ尊いものであるからです。私たちが造られた目的は、自分たちを喜ばす目的で造られたからではありません。すべての創造物には目的があります。車は人を運ぶため、冷蔵庫はものを効果的に貯蔵するため、人間が造るものでも目的ははっきりとしています。冷蔵庫にのって、空を飛ぼうとする人はいません。最初に造られた目的と違うからです。
では神が人間を造った目的とはいったいなんでしょう。創造の目的が解ると、神が見えてきます。私たちが無から造られたのは、神が私たち人間とコミニケーションを取るためです。神が人間だけに言葉を与えたのは、人間が神と会話ができるようにです。神が求めているのは、人間との関係です。人間が造られたのは、私たちが生きているのは、神の目的のためです。それが関係を持つために造られた人間です。創造主のいない進化論を信じる人間には出てこない結論です。
私たちが頂いた命を楽しむことで、神に栄光が帰ります。それが神の求める人間の姿です。私たちの子供が、無条件で「お父さん」といって胸に飛び込んでくるとき、親として喜びを感じます。そしてなによりも子供の喜ぶ顔を見て、いちばん喜ぶのは、その子の父であり母でしょう。父を喜ばすことは簡単です。自分の人生を喜ぶ生活にすることです。今人生であなたは喜んで生きていますか?または楽しんで生きているでしょうか?
創造の神イエスキリストを認めることで喜びの生活が始まります。今日がその信じる日となれるように、そして最終的な人間の創造の目的は、神を自分の創造主として礼拝することです。キリストを信じ、信仰をもって神を礼拝する。これが神が人間を造られた最大の目的です。クリスチャンが神を礼拝する姿を神は喜ばれます。神が喜ばれるのは、神によってつくられしものが、信仰をもって神イエスキリストを礼拝する時です。神を喜ばす人生にあなたも人生を変えませんか?神は私たちが信仰を持つことを喜び、礼拝する姿を喜び、神に委ねる態度を喜びます。英語ではtotal surrenderです。あなたの人生が完全に創造主である神に委ねる人生となりますように。
お祈りします。
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