宗教学と神学には違いがあります。


宗教学は人間が中心となって、人間がそれぞれの神へのアプローチを学ぶこと。
神学は、神が中心となり人間へ神の存在とその属性を教えること。

日本人は宗教的な人は多いのですが、神学的に人間を見ることができていません。日本では宗教家は多いのですが、神学家というタイトルを耳にしません。日本人の神へのアプローチは宗教的な立場が一般的です。つまり人間中心の宗教観が日本にまん延し、宗教を社会的に作り上げてきました。これでは日本の社会において神を見つけることができません。神学で神のアトリビュート(属性)を学んでいないからです。宗教では神を学ぶことはできません。

神学は基本的に神の存在を前提とする学問です。その中心にあるのは信仰です。信仰がなければ神学は理解できません。神の存在を信じる信仰が大前提で神学を学ぶことが必要です。そして神学はすべての造り主、すべての始まり、すべてを支配する方を神と定義します。クリスチャン神学では最終的にイエスキリストが神と定義されます。

神学論ではおおきく二つの神学があります。
カバナント神学(契約神学)とディスペンセーション神学です。

 リフォーム教会を中心として信じられている神学を簡単に説明すれば、神と人間との間で結ばれる契約が契約神学です。契約神学には神側と人間側の二つのサイドがあり、この契約は両者が同意して完成されます。この契約神学が日本ではなかなか理解されません。それは日本が契約社会ではないからです。神と契約関係に入るという概念が根本的に日本人社会にありません。いっぽうキリスト教は神との契約で成り立つ関係です。ですから日本でキリスト教が理解されないのは、神学的に見ると契約関係を持たない人種なので、キリスト教の概念が国民に浸透しないのです。キリストの十字架による贖いの契約という概念は、日本人社会の宗教概念からかけ離れています。また贖いが血を流さなければ確立しないという概念も日本人には理解しずらいものです。

神との契約 一番初めに神と契約をしたのはアダムとイブです。アダミック契約と言われるもので、この契約関係は、全人類に施されるというのが、契約神学の基本概念です。アダムの血を受け継ぐ者(全人類)は、神との契約を破棄して、禁断の実を食べた罪の影響を受けています。契約を破棄したことにより、ペナルティーが科せられました。最初の人類に与えられていた永遠の命は破棄され死がこの世に入りました。

しかし愛の神はこの死の解決方法を人間に示しました。神の子イエスキリストは私たちの罪のために十字架にかかりました。キリストが生きた神の子として、私たちの罪を贖うという聖書に示された契約が神の人類救済方でした。キリスト教が日本では受け入れられていない理由は、日本人の宗教観がキリスト教的救済方法と一致しないからです。契約社会で生まれた救済方法はキリスト教を外国の宗教にしてしまいました。今日でもキリスト教=外国人の宗教 というジレンマは除かれていません。

ディスペンセーション神学(経論主儀)の特徴

契約神学が日本人に合わないのは日本が契約社会でないことを例としてあげました。ではディスペンセーション神学も日本で受け入れられていないのはなぜでしょうか?

ディスペンセーション神学はアメリカでは一般的にサザーンバプテスト教会で教えられている教義です。戦後日本の宣教師はバプテスト派出身者がアメリカから送られ、日本にもサザーンバプテスト教会が地方を中心に出来上がっていきました。しかしこのバプテスト派のディスペンセーション神学は日本に浸透しませんでした。アメリカナイズされた教義であったからでしょうか?

ディスペンセーション神学のディスペンセーションは日本語には正確に訳されていません。ギリシャ語ではエコノミヤが原語で使われていますが、カバナント神学が契約神学のようにそのまま日本語表記できません。あえて説明するならば聖書を解釈を7つのシステム(時代)に分けたのがディスペンセーション神学です。
 1)無垢の時代(創造からアダム)
 2)良心の時代(楽園追放から洪水)
 3)人間統治の時代(洪水後からバベルの塔)
 4)約束の時代(アブラハムからモーゼ) 
 5)律法の時代(モーゼの律法からペンテコステ)
 6)恵みの時代 (キリストから現在)
 7)御国の時代(再臨後の千年王国)

ディスペンセーション神学の特徴は聖書の解釈方法にあります。聖書の言葉を文字通りに解釈するのが、ディスペンセーション神学の特徴です。例えば聖書には千年王国という概念がありますが、基本的に契約神学では千年という特定な期間を指してはいないと解釈しますが、ディスペンセーション神学では再臨後の千年をキリストが王として地球を治めると解釈します。そしてキリストの携挙は大艱難の前という解釈です。千年王国が実際1000年間地上にあると文字通り解釈します。
 バプテスト系神学校出身の楠の神学もディスペンセーショナル神学です。この解釈の基本になるのが「聖書を文字通りに解釈する」です。ですからイスラエルと教会は二つの独立したエンティティー(組織で)契約神学のように教会がイスラエルの代わりにはなりません。イスラエルに与えられた旧約聖書の約束は、新しい契約を信じるクリスチャン(教会)にはあてはまらないと教えます。
 たとえば十戒が与えられたユダヤ人は土曜日を安息日として守りますが、クリスチャンは安息日(土曜日)を守るという概念はありません。私たちはキリストが復活のした日曜日を主の日として神を礼拝します。旧約聖書の戒律から開放されているのがクリスチャンです。

カバナント神学を信じる教会もディスペンセーション神学を信じる教会も福音派のキリスト教会です。

私が日本のクリスチャンに望むことは、お互いの神学的違いをレスペクトして、お互いに得を高めることをしてほしいのです。キリストにあって一致するのが真のクリスチャンです。神学が違ってもキリストにある信仰は同じです。神学を学ばないと違いが解りません。違いが解らないのでお互いを裁きます。相互理解をすることで敵対しないクリスチャンの輪ができます。二つの違う神学 カバナント神学でもディスペンセーション神学でも、キリストを信じる信仰により恵みにより救われることを知らせるのがクリスチャンの使命です。神学の違いがあってもキリストによる一致ができるようにして行きたいと願います。
 アメリカではカバナント神学で第一人者のR.C.Sproul氏とディスペンセーション神学の第一人者JOHN MacArthur氏が同じ牧師会でセミナーを開いていました。神学の違いを乗り越えて、福音伝道をしている雛形です。この二人が手をつなぐことができたことは奇跡ですが、二人の間で妥協なく共通した教えがありました。神の恵みによる福音を伝えるという使命です。この二つの神学の共通点が神の恵みです。神学を学ぶことで私たちが究極的に行きつくのは信仰による神の恵みの救いです。これが私たちが日本に広めなければならない福音です。神学を知ることで真の福音が引き出されます。宗教学ではこの結論を引き出すことはできません。神学軽視の日本の教会は、神学を学び真の福音を知ることが必要です。もし日本にリバイバルが起こるとすれば、神学の復権からリバイバルが始まると思います。
お祈りします。

元牧師いま社長
楠秀樹

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