左上のキリストのポートレートは偶像です。人の手で描いたものだからです。誰もキリストを見たものは、21世紀に生きていません。第一キリストはユダヤ人で金髪ではなかったでしょう。ゆえに上の人物は天国に行った時に私たちが出会うキリストではないでしょう。しかし現代の日本人がこの写真を見れば、クリスチャンでない方も、100%イエスキリストと認識するでしょう。これもキリスト教会で行われている偶像礼拝が持ち込んだ罪の影響です。たぶん本当に復活されたキリストを見た時に、私たちはその方を本当のキリストと認識できないでしょう。このような写真が教会内外でまん延しているからです。
同じようにイメージが先行でキリスト教というとカトリック信者を含めて、クリスチャンというのが一般の日本人の概念です。しかしカトリック信者はクリスチャンではありません。クリスチャンという条件はイエスキリストを個人的に神と信じ信仰で救われている方ですが、カトリック信者はキリスト信仰だけでは救われないので、クリスチャンという条件から外れています。特にマリア像への祈祷、天使礼拝、使徒らを聖人化して祈る、POPEの神格化は神が忌み嫌う偶像礼拝です。正常な保守的クリスチャンであれば、カトリック教会でキリスト信仰を守ることはできません。カトリック教会を一言で形容すれば、世界一大きな偶像礼拝する異端宗教団体、英語ではHERESYです。この事実に気づいていない方がカトリック信者です。家族が信者であるため、信仰から抜け出すことが難しく、教義的な間違いを直視できない方が陥る宗教トラップにはまった方々です。モルモン教の家族の一人が本当の神キリストを信じても、モルモン教会から抜けられないのと似ています。
プロテスタント教会でも、形式主義に走ると、カトリック教会のように本来の礼拝を怠るようになります。一般的に主の祈りを会衆で唱え、使徒信条を礼拝で繰り返すことが礼拝として定着化していますが、このカテキズムによる形式主義は偶像礼拝と同じように危険な行事です。リトレジカルliturgical教会の傾向で形式主義を重んじる教団では儀式や慣例厳守を礼拝と勘違いしています。礼拝中での使徒信条朗読は礼拝に偶像思想を持ち込んでいるいい例です。また主の祈りの会衆への強要は、主の祈りの基本的な概念をも崩しています。会衆で唱えるものが主の祈りではなく、あくまでも個人が神との祈りでなされる祈りが主の祈りです。現在日本のキリスト教人口は人口比0.2%以下になっていますが、原因は形式偏重主義の教会が本来のキリスト信仰を次世代に伝えられないので、教会の超高齢化が進んだと分析しています。キリスト教会の日曜礼拝出席者は平均年齢が60歳を超える傾向にあると聞きました。形式主義のキリスト教会に起こっている傾向で、一般的な日本の教会の姿は正常なキリスト教会の形には見えません。大変残念な教会の実像を日本に帰ってきてから知りました。
カトリック教会も、リベラル派のキリスト教会も、偶像礼拝をしている点では同じです。ただその礼拝する対象が目に見える偶像と目に見えない教会の教義との違いです。清め派の教会では広く受け入れられている使徒信条ですが、使徒信条は390AD Council of Milanでカトリック教会が正式に制定したもの、聖書にない教義が教会に入り込んでいる典型的な例です。人間の言葉を聖書と同じレベルで扱っています。そしてそれをプロテスタント教会の礼拝で唱えることが礼拝として成立していることに違和感があります。以前使徒信条から日曜日の礼拝の説教を準備していると誇らしげに語っていたホーリネス派の世田谷教会渡辺牧師と一緒に田舎の旅館に泊まりました。使徒信条の素晴らしさをわざわざバプテスト派の私に言ってこられたのを記憶します。使徒信条からの説教は坊主の説法と同じで説教の価値はありません。御言葉を信徒に解りやすく語るのが私たち牧師の仕事です。使徒信条では的外れです。
結論は日本のキリスト教会はこれからも今以上に衰退,異端化してゆくでしょう。また一時期盛んだったエキュメニカル運動はカトリック教会とリベラル派のキリスト教団とでこれからも進めていかれるでしょう。聖書で真理への道は狭き門となると預言があり、この預言は日本では成就しています。教義的な違いを超えて一緒になろうという運動がすでに真理の神から離れています。なぜなら妥協してできるものを神が喜ぶこともなく、16世紀にはじまったプロテスタント運動の意味も意義もなくなります。人は信仰によってのみ救われます。拝む対象がキリスト以外になればキリスト教ではありません。キリスト以外に拝む神は存在しません。
偶像礼拝が教会に浸透して行くことが終わりの日のキリスト教会の傾向です。2000年前主イエスによって語られたことです。一部のカリスマ派も、この偶像礼拝を行なっています。恵みにより救われるという反面、異言や預言という感情に訴えるめぐみ以外の証拠を求めて、それらの感情を聖霊の働きという誤った聖霊論で礼拝しています。特に異言が第二の恵みと教えるグループが現れて、異言を話すパーフォーマンスが教会で奨励されます。しかし異言はすでに一世紀の終わりに、聖書が完成しその役目を終えています。(著者はディスペンセイショナリスト)異言または預言の賜物は、御言葉に疑いを持つクリスチャンが、めぐみだけでは信仰を保てないので求める、いわば信仰の松葉杖のようなものです。この賜物を求めることで、本来求めなければならない「キリスト」から目が離れていることにカリスマ派の信者は気づいていません。
キリスト以外に道はなく、キリスト以外に平安はなく、キリスト以外の恵みも必要ありません。キリスト教はキリストを求め愛する、ゆえにキリスト教はキリストによって完成され、その真理を語り継ぐものです。キリスト以外に救いがないことを示すことが本来のキリスト教の目的です。まず第一に神(キリスト)とその義を求めること が私たちクリスチャンの使命であり目的です。キリスト以外に天への道がないことを示すことがクリスチャンです。(ヨハネ14章6節)一般的に日本人は宗教がどうであれ神は人の心を見るといいますが、すべての宗教は滅びに向かっています。神はキリスト以外に救いを与えていません。キリストが道であるというキリストの言葉は、これまで2000年間有効でありまたこれからも永遠に有効な天国への一本道です。なぜでしょうか?キリスト以外に十字架にかかった神はいないからです。だから仏陀もモハメッドもPOPEもキリストの代わりにはなりません。なぜならば人の罪のAtonement(贖い)はキリスト以外にできないからです。罪のない神の子イエスしか、私たちの罪の代わりの生贄にはなりえないのです。
ヨハネ14章6節で、「私が道であり、真理であり、命である」誰も私を通してでなければ父の身元に行くことはない。この御言葉にキリストの真理が凝縮されています。天への道はキリストの一本道です。真理はキリストです。そしてキリストにより永遠の命が約束されています。あなたも今日がキリストに信仰を持つ日となればなんと幸いなことでしょう。お祈りいたします。
2018年 2月 元インランドエンパイヤ教会牧師 楠 秀樹 M.A. in Theological studies
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