ニコデモが出会った福音



 オリジナル説教タイトル You must be born again

日本語タイトル ニコデモが出会った福音

本日の聖句 ヨハネ書31節-15節
 
 Born againを世界中で有名にした人がDr.ビリーグラハム師です、彼の執筆した本が約30年以上前まだ年号が昭和の時にベストセラーとなりました。本のタイトルがHow to be born again このヨハネ33節「生まれ変わらない限り神の国を見ることはない」が主題でした。

 これをイエスから直接言われたのがニコデモ エルサレムで一番偉いパリサイ人で、律法の先生の中の先生、ニコデモはユダヤ教律法学者のリーダーでした。

 このユダヤ教のいいなれば大御所がイエスキリストに言った有名な言葉が、v2「神がともにおられなければ、あなたのなさるこのような印は誰にもできません」ですが、興味深いのはニコデモが夜にお忍びでイエスに会いに行っています。またイエスをラビ(先生)と呼んでいるところの2点です。

 どうしてお忍びでイエスを尋ねたかは、今も2000年前も同じ理由です。当時彼よりも律法に厳しくまた律法を尊重する先生はいませんでした。ラビ中のラビがイエスに会いに行くというのは。自分の社会的立場を考えると表だってはできません。現代日本のアイドルと同じです。SNSでデートを報じられないようにするAKB48アイドルのようです。identityは隠して行く必要がありました。ですから夜に誰も見ていないところでイエスに会いに行っています。またここで彼はイエスを先生(ラビ)と呼んでいます。彼はイスラエルのラビでしたが、無名でどこの馬の骨か解らないイエスをラビと認めています。しかしまだ神の子という確信はこの時点ではありませんでした。

  本日の中心聖句である、You must be born again 「人は生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできません」を言われても、ニコデモはイエスの言葉をすぐに理解できませんでした。「老人になってから生まれることができますか?もう一度母の胎に戻ることができますか?」と真剣に答えています。これはイエスの言う生まれ変わりとは霊的な生まれかわりだったからです。これが続く、 5節「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」またイエスはここで、ではどのようにしたら生まれ変われるのかという説明をしていません。旧約聖書の代表的な聖句を用いて説明しています。水と御霊が出てくるのは、創世記12節「水の上を御霊が動いていた」を連想させます。すべての宇宙の始まりの時にも、水の上を御霊が動いて始まっています。新しい魂の始まりも、この水と御霊の働きが必要であることを彼は後に知るのでした。

  またイエスはもう一つモーゼの時にあった出来事を使ってニコデモに神の国を比喩的に伝えています。なぜならニコデモの専門分野は旧約聖書 モーゼの5書であったからです。その箇所が

旧約聖書 民数記219

 「モーゼは一つの青銅の蛇を作り、それを旗竿の上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

 これはイスラエルの民が神の計画に文句を言い、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った時に起こったことです。(民数記21:4-6)神の準備した食物マナに対して、こんなものが食えるかと文句を言ったからでした。神は文句を言ったイスラエルの民に蛇を送り、彼らはそれにかまれて苦しみました。そしてイスラエルの民はまたモーゼに嘆願しました。「私たちは罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってくださるように主に祈ってください」そこで作るように示されたたのが旗竿にとまる青銅の蛇です。

 彼らが癒されたのは旗を見上げると治るといわれた言葉を信じた信仰です。これはのちに人間の罪を背負って十字架にかかるキリストのTypology(類似性のある比喩的表現)となります。

 ニコデモはこの話を通して真理を示されました。律法を守ることで神の国に行くのではなく、従順に神の言葉に従う信仰で行くのが神の国です。 

 律法学者(サンヘドリンと呼ばれる70人学者の一人)としてニコデモも民数記は教えていました。木にかかった青銅の蛇を見上げることで癒されることは先祖の話として熟知していました。ユダヤ人の成人男子であれば暗唱しているはずです。後にこの状況に似たことが身近に起こります。キリストと出会ってから、約3年後にイエスは十字架にかかります。ニコデモはキリストの十字架を見て、born again の真意を理解します。旧約聖書の律法を守ることで(人間の行い)神の御許に行けると信じていたニコデモは、キリストを信じる信仰で神のもとに行くことを知るのです。

 人間の行いでは神の国に行けない、信仰によるという新しい契約を知ったニコデモのショックは大きかったでしょう。それまで彼が生涯をかけて守っていた旧約の教えが、魂の救いに関しては無効になったと同時にキリストへの信仰を心から感謝したでしょう。
それは彼にとって律法を守るという責任の重圧から解放された時でもあったからです。一般的な日本のクリスチャンの信仰生活にも当てはまるケースです。今自分の信仰を重圧に感じている方です。その方は教会則を守ることと信仰生活とをはき違えています。これを私は「ニコデモ症候群」と呼んでいます。キリストはニコデモに前例にないことをしない厳格なユダヤ教の教えから、新しい契約を信じられるかをチャレンジをしました。ペテロにも同じことをしています。律法では食べることを禁止されている動物を食べるように啓示した時です。(使徒10918)できているでしょうか。神が信徒を用いるとすれば、唯一従順にみ言葉に従う方を用います。クリスチャン生活の中心はみ言葉です。信じるものを見誤っているとクリスチャンではなくいつの間にかパリサイ人になります。単刀直入に言えば、人の言葉や評判に惑わされないようにすることです。日本人の信仰は八方美人的で、キリスト中心となっていません。気にしなければならないのは神で人ではありません。神中心か教会中心の信仰かを問われています。

    キリストは十字架で死に復活し神の右の座におられます。顔をあげて今十字架を見てください。その十字架にキリストはかかっていますか? カトリック教会の十字架には苦しむキリストがいます。しかしプロテスタントではキリストは十字架にはいません。カトリック信徒も復活は信じています。しかし彼らの強調するキリストは十字架上で苦しむキリストです。一般的に信仰成長に弊害があるときの傾向は、復活した栄光のキリストを理解できていないときです。十字架で罪の贖いは終わっています。私たちの罪は許されています。主の業に感謝してつぎに進むことが必要です。

   しかし信仰生活に問題があるときは、キリストから焦点が離れ、問題に目が行っている時です。(特に女性信徒にある傾向です)見上げるのは復活し死に勝利したキリストです。具体的には過去との決別と復活の希望を再認識することです。日本のクリスチャンの使命は2000年前から変わらない福音を家族に伝えることです。命も希望も愛も復活したキリストにあります。私たちが癒されるのはキリストを信仰をもって見上げた時です。

 315節 それは信じるものがみな

 ニコデモが解らなかったのは、Born againの霊的意味でした。彼は旧約聖書のRegeneration(霊の新生)を教えていました。しかし肉の行いでは神の国を相続できないことを知らされました。霊の生まれ変わりはキリストを信じる信仰で与えられる賜物です。神からのギフトです。信仰がなければ新生はありません。生まれ変わってから信仰を持つのではありません。常に信仰が先にあって新生されます。すべては神からの一方的な恵みです。

 315節b 人の子によって永遠の命を受ける。

 ニコデモのユダヤ人の持つ契約主義の価値観が完全に崩れたのがこの一言です。ニコデモの心にある質問、では一体誰が神の国(永遠の命)へ行けるのかの答えをキリストは示しました。律法はキリストによって成就されるという預言です。永遠の命は得るものではなく、キリストにある恵みで受けるものということを知ります。人の子イエスに信仰を持った時に与えれられる賜物です。

  その時歴史は動いた。(NHK風に)パウロがダマスコに行く途中キリストと出会った(使徒9章3節-9節)時と同じインパクトがここにあります。この時ニコデモの律法学者としての人生が動きました。Born again の一言で旧約聖書の律法は淘汰されました。人の子キリストを信じる信仰で与えられるのが、永遠の命であることを知らされた時です。私たちもニコデモも人の子を信じる信仰で永遠の命を受けます。これがゴスペル福音です。
 では最後に質問です。あなたは今神を見上げキリストに信仰を置いておられますか? お祈りいたします。

 2019  主日 元牧師社長 

株式会社つやげん 代表取締役 楠 秀樹

Email  tkusunoki60@gmail.com

 

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