輝きのある人生
リックウォーレン牧師の説教を日本語に翻訳して話しています
今回はダイジェスト版で、ポイントをお話しして行きます。インターネットで英語のメッセージを直接聞けますので、www.saddleback.comで聞いてください。リック牧師が一年かけて企画制作した説教ですから大変恵まれます。
また彼の説教のスタイルを説明します。彼のスタイルはその日のテーマにあった聖句をピックアップして説明するトピカル(Topical)説教です。みなさんが普段聞いている講解(Expository)
説教とデリバリーの方法が違います。トピカル説教が解りやすいのは理由があります。この説教はテレビの番組の構成と同じです。例を使って説明すると、水戸黄門とアメリカで人気のCSI (科学調査班)の違いです。水戸黄門は一つのストーリーをじっくり見て悪代官が最後に水戸黄門に成敗されるという。おきまりの完全懲悪番組構成です。(キリスト教風に言えば、悪代官(罪人)が、イエスキリストに出会い、罪を悔い改めて町人と仲直りする。キャスティングはイエスが水戸黄門 助さんがペテロ 角さんがヨハネ)この水戸黄門が今までの講解説教の仕方でしたが、41年間続いた水戸黄門が放映終了となったように、説教のスタイルにも時代の流行が影響します。
現在はCSI型説教がアメリカのメガ教会(3000人以上の会員)の主流となっています。CSIのように一時間の番組中に何軒もの事件が発生し、同時にその事件を追って解決して行くというスタイルがテレビドラマの主流です。これは1975年アメリカングラフィティー(ジョージルーカス監督)が最初に使った手法です。説教も一つの聖句を深く掘り下げる説教から、トピックを決めてそれにあった聖句をランダムに見てゆく方法が一般的にメガ教会では用いられています。
このようにテレビの影響を多く受けていることをクリスチャンも気がついていません。現代人の集中力は大人でも6分未満です。この原因は一時間ドラマに6分で一回のコマーシャルが入るので、それに視聴者がならされたためです。6分以上長く集中して話を聞くことが大人でもできなくなっています。(テレビのカットでは平均8秒に一回シーンが切り替わります)大きい教会のほとんどがトピカル説教を現在採用し、パワーポイントを使って礼拝しています。これはテレビにならされた信徒が説教に飽きないように、説教もテレビ番組の構成に近いプログラミングを採用したからです。
メガ教会になったのは理由があります。この分析ができても講解説教をするのは、自己流を通そうとする私のわがままです。これからは日本人教会でも信徒の必要にあわせた説教ができる若い牧師が必要です。若い人を教会に定着させるには教会の運営方法自体を改めなければならないでしょう。日本人教会に青年がいないのは理由があります。社会の変化への対応が遅れると取り残されるのは企業だけの現象ではありません。企業も教会も淘汰されていきます。21世紀を組織として生き残るには指導部から遜り変えられること(イルミネーション体験)が必要でしょう。
さて今日はアウトラインを日本語にしました。空欄に自分で書き加えるスタイル(これもメガ教会が採用する方法)です。ペンを準備して聞いてください。
本日のテーマ イルミネーション(霊的視野の活性化)の定義
「輝きがあればあるほど、オブジェをしっかりと見ることができる。
聖霊によって御言葉の意味を照らしだされたら、その真理を自分の人生へ的確に応用すること」
ヨハネ14章26節 16章15節
聖霊が理解力を与えてくださる。
聖書を読み進めるうちに、どのように御言葉を自分の人生に用いていけばいいのかを考えるようになります。
エペソ書17節 エペソ1章18節―19節
霊的に新生すると、見えてくるものがあります。物質的なものではなく、霊的な世界が見えるようになります。これがイルミネーション(霊的視野の活性化)です。聖書を読んでいくうちに与えられるインサイトが聖霊による霊の活性化です。いままで見えなかった神の真理が御言葉を通して、目の前に飛び込んできます。霊的視野(神が心の目を開くこと)私たちの霊的視野を広めてくださるのでしょう。
では神が霊的視野を広げてくださるとどうなるのか?を具体的に御言葉を通して見てゆきます。
1. 神が霊的目を開けると ( )が見えてくる。創世記21章19節
アブラハムとセラの物語 ハガイを通して子孫を残すプランを立てたアブラハムは、女奴隷のハガイとの間にイシュマエルが生まれます。
しかしこれは神の計画ではなく、サラ自身の計画であったために問題が生じ、サラはイシュマエルとハガイを嫉妬から追い出してしまいます。彼らは何日か砂漠を彷徨い水が見つからず死を覚悟するのですが、神がこのシチュエーションに介入され、霊的目が開かれてます。そして目の前に水があることを知らされます。神はハガイの息子イシュマエルを後にアラブ人の先祖にする約束をします。 水は神の使いがハガイに話される前からそこにあったのですが見えていませんでした。 ハガイの命の水は神が彼女の目を開けたときに見えるようになりました。私たちの命の水は御言葉です。それを理解させてくださるのも神の働き(イルミネーション)です。
2. 神が霊的目を開けると (
)がみえるようになる。民数記22章31節
バラムとドンキーの話で、神の使者が行く道を閉ざしているので、ドンキーはまっすぐに道をすすまないで、道をそれてしまいました。バラムは怒って鞭でドンキーを打ちまっすぐすすむように強制しますが、ドンキーは動かなくなってしまうのです。そこで神はバラムの目を開けて、何が彼らの行く道を閉ざしているのかを見せました。神の送った使者が剣を持って道をふさいでいたのです。
私たちの計画でも進むことができない問題にぶち当たります。前に進めない時に神が道を閉ざしている場合があります。霊的目が開かれたときに、神の導きが見えるようになります。これもイルミネーションです。
3. 神が霊的目を開けると (
)ことができる。 第2列王記6章17節
エライシャが敵(エラム族)に囲まれたときに、エライシャには見えていた神の軍団を、町の若者は見えていなかったので彼は敵を恐れました。そこでエライシャは主に祈って、彼にもエライシャが見えている神の軍団を見えるように祈りました。
経済的な問題で恐れを感じているもの、人間関係で恐れを感じる時も、わたしたちが普段の生活で感じる恐れは、日々の生活で神を見ることができないために起こることです。私たちは神の軍団に守られています。それが見えるようになるのは神がイルミネーションを私たちの心の目に与えたときです。恐れを感じなくなるのは、神が共にいることを知るときです。敵からのアタックが来たときに、私たちを守ってくださるのは神です。
4. 神が霊の目を開けると ( )できるようになる。ルカの福音書24章31節
復活の日エルサレムから11キロ離れたエマオへ行く途中、一組の夫婦がエルサレムであったキリストの十字架の一部始終を興奮しながら論じあっていました。そこに復活したばかりのイエスが彼らに近づき、何を一生懸命に二人が話しているのかを聞きました。彼らはその質問に「あなただけがエルサレムで起こったことを知らないのですか?」と驚きながらキリストの十字架の話をキリスト御自身になされました。そこでキリストは彼らにどうしてイエスが十字架に架かりよみがえったかを旧約聖書の預言を通して話されました。しかしそれでも二人には話をされている方がキリストとして見えていません。そこで二人はこの旅人を夕食に招待しました。一緒に食事をしているときに、パンを裂いて感謝を捧げたところで、彼らの目が開かれて、そこにいるのがイエスと解りました。イルミネーションの瞬間です。彼らは絶望のあまり目の前にいるイエスを見ることができませんでした。
神は私たちに何を見せようとしておられるのでしょうか?どのようにして神のイルミネーションを受けることができるのでしょうか?具体的な例を挙げてゆきます。
1.キリストとの個人的な関係を持つ
第一コリント 2章14節
ヨハネ 3章3節
キリスト教は宗教ではなく、神との関係を回復することが目的です。あなたは個人的に神と関係を持っていますか?
2.神の霊の目が開かれるように祈る
詩篇119編18節
マタイ 7章7節
詩篇32編8節
祈りによって自分の必要を知ってもらいなさい。神は全てをご存じですが、イニシアティブを取るのは祈りです。神に求めることで求めるものは与えられます。
3. 遜って神に近づく
詩篇25編9節
箴言3章5-6節
神に近づくには遜った心と態度が必要です。自分のやり方ではなく、神のやり方を遜り求める。
4. 心を清めて神に問う
第一ヨハネ2章11節
解決されていない問題を持ったまま神の元にいけません。神へのアプローチには、清められた心が必要です。きよめはキリストの十字架の贖いから与えられます。行いでは清まりません。また清まると言うことは完全になるということではありません。隣人と仲の悪いまま神の元にはいけません。あなたの隣人とは、家族親族であり仕事の仲間です。あなたの一番近い方と仲直りし許し合うことが必要です
5. 神への約束に従ってゆく
詩篇119編34節
ヤコブ 1章22節 メモリー聖句
これらのことを行う。聞くだけでなく、行うものとなりなさい。私は神に従ってゆきますと言うコミットメントを守る
私たちは人間は自らの努力でキリスト教的に変わることはできません。日本人は滝に打たれ、仏閣をたづね、題目を唱え、先祖に祈ります。求めているのはイルミネーション、今の現状からの打開策を心の中で模索して宗教行事を行います。しかし人間の行いでは変えられないというのが聖書の立場です。聖書的に人間が変えられるのは、神がイニシアチブをとり、神が与えてくださる霊的介入があったときです。一番わかりやすいのはパウロの会心です。私たちの人生でも変えられたのは、神の介入があったからです。私たちがまだ罪人の時に神はキリストの恵みを私たちに解るように示してくださいました。一方的に神からの介入が会心の引き金となっています。つまり人間のいかなる行動でも、自分を根本的に変えることはできません。自分は変えられるというおごりがそこにあるからです。
人間が神に従順に従ったときにのみ人間は変えられます。聖書の人物も神との遭遇の後に、神に従っています。神のDivine Intervention あなたの人生でも神の介入があるでしょうか?そして従順にその神に従っているのでしょうか? 信仰とは望んでいる事柄を保証し目に見えないものを確信することです。神の恵みはいっぽう的で、英語ではImputed Righteousness めぐみは神からの賜物ですから、目見は見えませんが確かにあるのです。変えられた私たちがその生きた証人です。お祈りします。
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