変えられる人生

 

本日の聖句 エペソ書2章8節9節

説教題 変えられる人生

 

あなた方も同じように隣人を愛しなさい。これは謙った神だから言えることです。聖書では隣人は隣に住むせっかいやきのおばさんではありません。あなたのとなりにいつもいる方のことです。私であれば妻の千恵子です。彼女は厚生省指定難病 血小板減少性紫斑病です。17歳で発症し不治の病です。しかも40代でがんとなり、大きな手術を何度も繰り返しました。苦しむ彼女を見ていると、どうして神様はこのように艱難を通らすのか?正直疑問に思いました。しかし彼女を見ていると、それでも毎日一生懸命生きています。というよりも生かされています。生かされている彼女の人生が示しているのが謙遜です。本当に彼女の信仰には私はかないません。なぜなら私が彼女と同じ経験をしていたら、どれだけ自分の人生が大変か言いふらすため本を書いていたでしょう。しかし彼女は自分の通ってきたところを誇張しません。彼女はしないというより、生かされていることに感謝しています。私たちは生きているのではなく、生かされています。誰一人自分から生まれて来ると決めて生まれてきた人はいません.生まされて来ています。生かされて生きています。神により生かされている人生です。千恵子を見ると生かされていると感じます。私は毎日神に感謝しています。彼女が生かされていることを、生きていてくれていることを。

 

普段夫婦の会話で、彼女が病気になることを、壊れると表現します。

私 最近よく壊れるね

妻 50も半ばだから大変よ。(更年期障害で暑がる様子を見て)

私 返品しようかな製造元に(両親が隣に住んでいます)

妻 アラ大丈夫なの ご飯作る人がいなくなっても

私 それは困るね。ではしばらくの間はKeep君だな

妻 しばらくって?

私 僕が死ぬまで

妻 一緒にいてあげているのよ 我慢しなさい。 

 

 たわいのない夫婦の会話ですが、お互いを思いやっています。本当に癒されているのは私の方です。彼女は世界一のポルトガル語でポルカリヤ(ポンコツ)ですが私にはちょうどいいポンコツです。彼女を最初にポンコツといったのは、彼女の父親です。彼女が病気がちで大病をするので、親として責任を感じていたのでしょう。まだブラジルにいた時の会話です。義理の父が「すまないね秀樹さん、うちの娘はポルカリヤ(欠陥品)で」と表現したのでした。そこで彼女が病気をするたびに、ポルカリヤというようになりました。欠陥品であれば返品は利くはずですが、神との約束で、すこやかな時も病める時もこれを愛すると結婚式で約束しています。千恵子いわく、「何言ってんの30年使ったモノを返品できるわけないでしょう」返品は一年未満にするものだそうで30年保証はないのが結婚だそうです。

 これまで有名になった宣教師のあるあるは、たいてい有名な宣教師の妻は病弱です。しかし困難を乗り越え福音を伝える器となります。この方程式で行くと、私はとっくに有名になっていたはずです。しかし有名になっていません。大器晩成?でも大器でも晩成でもありません。有名になる宣教師の条件は資質です。私が有名なキリスト教の牧師になれなていない理由は資質の問題です。正しいと思えば絶対に自分の意見は曲げません。この性格を直さないと用いられることはないでしょう。しかし60歳を過ぎているのでそろそろ謙遜にならなければいけない時期です。残りの人生も多くはないからです。

 壊れている機械は自分の欠陥が解りません。また自分で自分を直すことができません。外からの助けが必要です。しかし第一にしなければならないのは、壊れているというい自覚です。多くの心の病の方は、自分が病気であることに気がついていません。アルコール依存症の方が直るには、自分がアルコール依存症であるという事実を受け止めた時です。人間が癒されるには自覚が必要です。これは罪に関しても同じことで、日本人がクリスチャンになれない第一の理由は、自分が罪びとであるという自覚がないからです。日本人は性善説を信じる民族ですから、元は人間いい人であるという概念があります。キリスト教は日本の人間論と根本的に違います。日本人が神社に行きお祓いをしてもらう動機が性善説です。元はいいが生きているうちにつくものを厄と称し、それを払ってもらえば元通りのよい姿になる。元は清いものという概念でお祓いに行きます。しかしキリスト教の人間論は性悪説です。人間に良いものなど一つもありません。罪の塊です。この自分の罪を認めることでキリスト教は始まります。しかし罪の自覚も自分からは出てきません。外からの助けが必要です。クリスチャンになるのは自分からではなく、助け主である聖霊がその人に働いた時です。

 この概念は「選民」という神学です。人間は悟りを得てクリスチャンにはなりません。クリスチャンは恵みによりなります。この恵みは一方的に神から与えられるもので、自分から得ることはできません。つまりクリスチャンは神に選ばれているからなるのであり、人が神を選ぶのではありません。神に人間として生まれる前に選ばれているのがクリスチャンです。

 求道者で教会に2年以上来られている方がいます。しかし残念ながら信仰告白に至っていません。彼の場合信仰に至る神体験がないが理由のようです。彼の求めるものは神体験(奇跡)です。奇跡が起きれば信じるようになるでしょうが、彼の期待する奇跡は起こっていません。ですから何年教会に来てもキリストが理解できません。求めるものは霊的な体験だからです。求めなければならないのはキリストです。またキリストを求める求道心は自分からでるものではなく、神から一方的に与えられるものです。人間を救うのは人間の行いではなく十字架にかかったイエスキリストです。典型的な間違いが彼の中にあります。自分の行いによって自分は変えられるという思いです。いたって日本的な宗教概念です。しかし罪人の行いにはどのような行いも罪が付きます。人間の業で神に受け入れられる行いは何一つありません。人間は外からの力で変えられなければ、うちが変わらないのです。この順番を間違えているのが一般的な日本人です。内を清め神の居場所を造ろうと努力します。自己洗浄をしようとするのが日本人、滝に打たれ、題目を唱え、よい行いと自己判断をして高ぶります。この行為自体「自分の行いは神に認められるに値する」という思いは高慢です。彼の行いは全て高慢な罪の業であることが解れば、キリストは近づいてくださいます。信仰は100%神にそのままの自分を明け渡すことです。変わってから近づくのではありません。変えられてから近づけるようになるのが神です。罪びとのままを受け入れるのが神の愛、その愛を受け取って十字架で贖われ、神の御座に行くことが許されます。順番は神の愛、十字架、そして御座です。変わる必要はありません。ただ変えられる必要があります。

 奇跡は人を救いません。人間が救われるのはキリストの内にある信仰です。神の国と神の義を求める信仰です。すべては恵みにより信仰で変えられます。行いではありません。誰も誇ることがないためです。(エペソ書2章8-9節)

 

2020年7月 川崎市にて 楠

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