ユダヤ人への手紙
この手紙はユダヤ人でクリスチャンになった、新しく信仰を持ったものに書いています。そこでユダヤ人で新米クリスチャンが陥りやすい間違いを正しています。
ユダヤ人は自分たちは神に選ばれた民というプライドがありましたが、新しい契約は特権をイエスキリストを信じるものすべてに与えられました。これまでは汚れていると信じられていた異邦人に救いが与えられてことに、戸惑いを持ったのです。そこでなぞの著者は同胞であるユダヤ人に手紙を書きました。それがへブル書です。ユダヤ人に新しい契約を理解してもらうためです。
人間は特権をなくすことを嫌います。それまで飛行機に乗るのはいつもエコノミークラスの人が、キリストを信じればエクゼクティブクラスにアップグレードされたようなものです。なぜ信じるだけでエクゼクティブクラスになれるのか?面白くないのは律法をそれまで宗教的に守ってきたエクゼクティブクラスのユダヤ人です。価値がないものが自分たちと同じ特権を持ったからです。
へブル書1章1節「神は昔先祖たちに、預言者を通して多くの部分に分けて、またいろいろな方法で語られました」
昔とは旧約時代を指します。彼らはモーゼをはじめ多くの預言をいただいていました。神の啓示を受けた特別な人種でした。いろいろな方法とは、39の旧約聖書を用いて ビジョンや預言、律法を通して、神はユダヤ人に特別啓示をしていました。
2節「しかし終わりの時には御子によって、私たちに語られました。神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」
世の終わりの時とは新約聖書時代を示します。
しかしこの表現「終わりの時」とはユダヤ人にとって特別な表現です。終わりの時に現れると信じられていたのがメシアです。終わりの時メシアが現れて、ユダヤ人を困難から救うという約束が旧約聖書にあります。この旧約聖書の成就がイエスキリストによってなされました。キリストが昇天されてから今日まで、終わりの時は続いています。
また御子によって万物が造られたという新しい啓示がありました。メシアであるイエスキリストは、目に見えるもの見えないものすべてを造られた方です。
近年の研究でビックバンが宇宙の創造であるといわれていますが、聖書的にはキリストによる創造がすべての始まりであり、それがビックバンかどうかは解っていません。それよりももっと大きな発見は目に見える宇宙は宇宙全体の5%でしかないという発見です。残り95%(ダークマター)は目では見れません。宇宙の外にいる神であるから、目に見えないダークマターがあったことを、ビックバン発見の3500年前に示しています。神は光を造った時に、闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1:5)光の創造の前に闇の存在を示唆しています。すべての造り主がイエスキリストです。キリストは世の光です。また旧約聖書の預言の成就になるメシアであることをユダヤ人に示した書がへブル書です。
3節 「御子は神の栄光の輝き、また神の本質完全な現れであり、その力ある御言葉によって万物を保っておられます」神の本質の現れはイエスキリストが本質的には神であることを宣言しています。疑いもなく父なる神と子なる神は同格です。神の子という表現は、ユダヤ人でなければ解らない言い方で、イエスキリストが三位一体の一人であることを示します。
「み言葉によってすべてを保っておられる方」
万物を造っただけでなく、万物の存在を保たれていることも、イエスキリストの働きです。私たちの生活が支えられていること、宇宙の動きが正確で地球が支えられていること、この世で起きることのすべてを神が守り支えておられます。この世で起こることで、神の知らないことはありません。
「罪の清めを成し遂げ」
イエスキリストが大祭司となり人類の罪の贖いを十字架でされたので、罪の清めという表現で、贖い主であることを宣言しています。ユダヤ人に新しい契約を示されました。それは新約聖書の契約が旧約聖書の契約を成就したことを意味します。新しい契約は古い契約を失効させます。贖いはイエスキリストの血を流すことで完成されたことを示します。ですから十字架以降動物の生贄は必要ありません。罪の清めはイエスキリストの十字架で完成したからです。
「すぐれて高いところ大能者の右の座につかれました」
大能者とは全能者の父なる神を示し、父なる神の玉座の右の座(最も名誉ある名座)につかれました。イエスキリストは父なる神から遣わされ、贖いを完成されたのちに元の位置に戻ったことを示します。
ユダヤ人が旧約聖書の契約を固く守っていたにもかかわらず、イエスキリストをメシアとして受け入れることができなかったことは、選民が自分たちの造り主を見分けることができなかったことになります。そして福音はユダヤ人から異邦人へと伝わりました。頑ななユダヤ人は2000年たった今でも、イエスキリストを神として認められずに、メシヤの到来を切望しています。
私たち人間は罪により神の恵みを理解できません。イエスキリストを神として救世主として受け入れることは、人間の業ではありません。神が罪のある人間に介入し、イエスキリストを信じられるようにしてくださらない限り、人間は神を理解できません。聖霊の神の働きで、イエスキリストを神と認められるようになり私たちはクリスチャンとなります。
ではユダヤ人には聖霊が働いていなかったのか?
ユダヤ人たちは選民主義があったので躓きました。自分たちだけが神に選ばれているという高慢がありました。彼らがつまずいたのは、自分たちは律法があるから清いというああ勘違いでした。人間はみな罪人であるはずが、ユダヤ民族は清いと勘違いしていたのです。律法を与えられて選ばれてはいましたが、律法(人の行い)では清くなりません。クリスチャンも同じように、イエスキリストによって清められていると信じます。清めは行いではなく信仰で与えられます。しかし根本的にクリスチャンも罪があります。人間は肉体がある限り罪を犯し続けます。ユダヤ人と同じ過ちをしてるのが一部のクリスチャンです。選民であっても罪人です。
選ばれてクリスチャンとなっていますが、それは神の一方的な恵みによる働きで、私たちに選ばれる資格があるからではありません。罪びとのままの私たちを受け入れてくださったのがイエスキリストです。神の選びに条件はありません。今あなたの隣の方を見てください。この人をどうして神は選んだのか? 理解できるでしょか? 神の選びで私たちはクリスチャンとなっています。能力や個人的な業で選ばれてはいません。だからキリストはあなたを選んだことを後悔することはありません。安心してください。神の恵みにリミットはありません。へブル書は選ばれた理由が神の恵みであることをテーマとして描かれています。あなたがクリスチャンなのは神の恵みです。
人間の罪が人間を神から離しています。しかしNAR(New Apostolic Reformation) は人間のポテンシャルをあげることで、神の働きができるとし、スーパー使徒と自己認証します。彼らは不思議な技と預言で人々を惑わします。人間の罪がもたらす社会現象です。自分はキリストに選ばれて使徒になったと公言し奇跡を起こします。聖書以外に新しい啓示はないはずが、彼らの預言は神の言葉として受け入れられています。この働きは大変危険な異端です。人間の業には罪の垢が付きます。スーパー使徒が答えではありません。本当に必要なのは謙りイエスキリストに信仰を持つことです。終わりの時には多くの偽預言者があらわれるという預言は、へブル書で訴えるように、いまが終わりの時だからある社会現象です。ポテンシャルをあげるために人間が行うすべての業は、逆に神から自分を引き離しています。私たちがしなければならないのは、謙り自分が罪びとの一人であることを認め悔い改めることです。イエスキリストの行いがすべてを現しています。謙り神が人となり、私たちの罪のため十字架につきました。天国への道があるとすれば一本道でキリストが道です。ほかに救いの道はありません。それはイエスを信じるものが一人として滅びることなく永遠の命を受けるのです。謙るものに現れる神がイエスキリストです。お祈りします。
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