説教タイトル 流されていませんか?あなたの信仰


説教タイトル 流されていませんか?あなたの信仰


一昔前のアニメで有名な言葉が「お前はすでに死んでいる」と戦う前に言うセリフでした。そのアニメは見たことがありませんが、このセリフが似合う現象が日本でもありました。


初めて川崎にあるバプテスト教会に行った時のことです。

自分は元牧師でアメリカ帰りということは知らせず、ただ初めて教会にきたおじさんというスタンスで礼拝に参加しました。そのときの礼拝新来者は二名でした。何を説教したかは残っていません。ただ最後の一言で驚きました。彼はこの教会を本日限りでやめるといったのです。動揺が走るかと思いきや牧師をやめることは前から決められていたようです。しかし花束贈呈もお礼の言葉も信徒代表からはありません。淡々と礼拝はすすみ終わりました。礼拝後挨拶に行くと牧師と握手をしている人はいません。最後のお別れで湿っぽくなることもありませんでした。ここの牧師は何かをしでかしたのだろうかと疑うほどです。たぶん何もしてはいません。普通に退職されていると思います。

初めて行った日本のバプテスト教会だったのでインパクトがありました。

礼拝を含めての印象は、何かが足りないのです。礼拝になければいけないものです。失礼な言い方ですが私の印象です。礼拝に足りないものは「主のご臨在」でした。たぶんその日主は欠席されていたのでしょう。あまりにも冷たい教会の雰囲気に地獄も凍るとはあの日のことでしょう。この日本の教会はあのアニメの言葉を思い出しました。お前はもう死んでいる。

 そこでその教会へ手紙を書きました。今度はアメリカ帰りのバプテスト牧師として礼拝の御用をボランティアしました。しかし彼らからの返事は代表者の執筆で、当教会はサザンバプテスト派なので、それ以外の教派からの奉仕者は断っている等の内容でした。そこでまた返信しました。私はBaptist General Conference 出身であるが、現在も母教会はサザンバプテスト教会ゆえにもしサザンバプテスト教会のものしか奉仕できないのであれば、私は教会則に適合していると自己弁証した手紙でした。

またまたその教会の代表の方から手紙が来ました。内容はあなたがサザンバプテストであろうがなかろうが当教会での奉仕は「お断りする」という強い意志を感じる手紙でした。最後に書いてあったのが、9月までの奉仕者は決まっていて、信徒で教会は守られている。あなたの提案は 余計なお世話 と間接的に指摘されました。

何ともこちらの意志は牧師がいないので大変だろうからできるならお手伝いさせていただければという純真な思いであったのですが、彼らにとってはおせっかい以外の何物でもないのでした。小さな思いやり大きなお世話であったようです。

 しかし私はその教会に呼ばれるだろうと勝手に思い込み説教まで準備していました。

あの時に教会にないものを信徒に理解してもらいたかったからです。それが主のご臨在でした。礼拝を守っていても、礼拝する対象の主が参加していない礼拝は真の礼拝ではありません。そのことは代表者の手紙からも受け取ることができるものでした。前牧師との不仲説(勝手に作り上げています私の中で)は牧師側の問題というよりも、信徒側に問題があることを示唆している手紙でした。元牧師なので牧師側を援護したくなるのは自然ですが、この教会は問題がありました。それがヨハネ書3章にある律法学者ニコデモとイエスキリストの会話で表現されていました。

ユダヤ教を代表する形式主義へ警告です。旧約聖書の律法を確実に守ることで神の国に行くと教えていたラビに、神の国はキリストにある信仰で行くと 人間の行いに関する警告をしました。日本の教会が守っているのは聖書の教えではなく教会則です。それを感じたのが川崎のバプテスト教会の礼拝でした。確かに礼拝は守られているのですが、主の臨在はそこにありませんでした。では楠は何を証拠に臨在がないというのでしょう。そこには二つの理由があります。

一つは自分たちで教会を守っているという高慢

もう一つは新しいものを取り入れることのできない頑な思い、

この二つの特徴はユダヤ人がキリストをメシアとして受け入れずに十字架にかけた時と同じ態度です。自分たちには都合の悪い教えをキリストが説いていたからです。ニコデモもキリストのborn againの意味は最初解りませんでした。
 

(ここからロサンゼルス空港で執筆しています)

アメリカのサドルバック教会にいって執筆途中の説教の答えがあたえられました。

201969日の礼拝メッセージはdrifting が主題でした。日本の信徒の持っている問題への答えが与えられました。その説教には女性の証しがありました。 どうして今わたしがカリフォルニアに来たのかの答えも同時に与えられました。仕事ついでに大谷翔平を見に来たつもりでしたが、じつはこのメッセージを聞くために来ていたようです

Saddleback 教会はサザンバプテスト派ですが、日本の私が行った教会と違うところがあります。それが「主のご臨在」です。彼女の証しを要約すると「私は周りの期待に応えるために奉仕をして満足し 神に仕えていると思っていた。しかしその根底にあるものは奉仕ではなく、自分の必要を満たすための隠れ蓑で、必要とされる自分を美化して満足する。自己顕示のための奉仕だった。栄光は神に帰せず自分にあった」というのです。日本にいる宣教師によくあるsymptom です。

drifting 信仰が漂っている時 私たちは神を見失っています。

英語で表現すれば

We are drifting away from the Lord as we act like a dedicated Christian.
  (献身深いクリスチャンに成りすましていると主から離れていく)
なりすましクリスチャンへの警告です。

私は神のために奉仕をしていると言う思い込みが一番怖い勘違いです。

サドルバック教会の牧師 Tom Hollidayはこのなりすまし奉仕を警告していました。

自己認証を教会奉仕でしている方へのメッセージでした。まさに川崎のバプテスト教会の役員が行なっていた事です。教会の奉仕で自分たちのクリスチャンとしての役目は果たしているという思い込みと高慢です。そこには愛も喜びもありません。あるのは義務で自己満足です。
 

神の計画は私が想像するより大きなものでした。二つの国を通して示された事は、

神への奉仕が義務ではなく キリストの示した愛で行われるということでした。

どのようにして信仰が漂わずにすむのか? ここからはPastor TOMの説教を翻訳します。

1.  神の愛をあなたの慰めとする 詩篇11976   あなたがしもべに告げられた約束にしたがって、あなたのいつくしみをわが慰めとしてください。

2.  神の言葉をあなたの力とする 詩篇11928 わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。

3.  神の意志をあなたのゴールとする ピリピ書:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

4.  神の恵みをあなたの希望とする ロマ書52 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

愛はキリストが掛かった十字架で示されたもの、犠牲にならなければならなかったのはキリストです。あなたではありません。罪の犠牲になれる条件は罪のないものです。罪ある私たちの行為には罪の垢が付きます。見返りを期待して行う奉仕はエホバの証人の信者の伝道と同じことです。彼らの奉仕の動機は自分たちの見返りを期待しての奉仕です。

本来キリストへの信仰は見返りを期待はしません。クリスチャンが示すのは100%キリストが十字架でなされた事で 私たちのいかなる行いでもないからです。

基本的な信仰と奉仕の心構えを見直す時です。漂い流されていませんか?キリストから

あなたが今流されていたのはものとはいったい何でしょうか?気が付いてほしいことです。神から離れている自分に、そして必要なのはコースの変更です。キリストに目を向けキリストの後をついてゆくことです。それを行うのは 今でしょう。
元インランドエンパイヤキリスト教会牧師 楠 秀樹

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