ルカの福音書5章 今も奇跡を起こす神
本日の聖句 ルカの福音書5章18節―25節
神は今も人に語ることがあるのか?
神は今も人を癒すことができるのか?
神は今も奇跡を起こすことをするのか?
本日のメッセージは神の業が21世紀でも見ることができるのかを検証して行きたいと思います。
ルカ5章18節から25節
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。5:19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。5:23 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
ここで中風という病名に日本語ではなっていますが、英語ではparaplegic 半身不随の人のことです。どうして中風という訳にしたのかは疑問ですが、日本の聖書学者は大げさな表現を避けたのでしょう。原語のギリシャ語でも「体にマヒのある人」の意味があります。
イエスの噂を聞いて、遠い町よりこの人は担架で運ばれてきました。しかしイエスの集会をしているペテロ家には大勢の人で入れません。そこでこの友人4人は大胆な行動に出ました。屋根に上り、家の瓦をはぎ、この病人をイエスの前に担架のまま釣り下ろすという策に出ました。この4人の信仰にはあっぱれバッチを進呈したいです。(TBS サンデーモーニング張本氏のファンです)
キリストはまずこの人の罪を赦しています。どうしてでしょうか?誰が見ても彼の必要は肉体的な癒しです。しかし人間が一番必要なものは魂の癒しです。そしてこの魂の癒しは、20節キリストの言葉通り、4人の友人の信仰によって与えられます。神は私たちの必要を全てご存じです。人間に一番必要な癒しは魂の癒し(罪の赦し)です。
ここで当時の律法学者とパリサイ人が、キリストの言葉に因縁をつけます。21節「誰が神以外に罪を赦す権威があろうか」と心の中でつぶやきました。キリストには彼らの心のつぶやきが聞こえたのです。神に隠すことはできません。神は全てをご存じです。私たちの心の思いも神は知っています。
このつぶやきは逆にキリストが誰かを認める行為です。神以外に罪を赦す権威はありません。従って聖書ではまず律法学者とパリサイ人がキリストを神と間接的にではありますが表しています。キリストは神にしかできないことをして神としての証明をしました。キリストは神の子ゆえに地上で罪を赦す権威を持っておられる方です。
もう一つ大切なところはたとえ罪が赦されても、現状に変わりがないというところです。つまり罪の赦しで運ばれてきた方の状況は変わっていません。体はマヒしたままです。肉体の癒しと魂の癒しは別々の問題です。当時ユダヤ人の間では大きな病気はその人の罪が原因と考えられていました。キリストは病気と罪の因果関係をこの奇跡で全面否定しています。もし罪が原因で病気になっていたのなら、罪を赦された時点で病気も良くなっていたはずです。しかし彼はキリストによって罪が赦された後も半身不随のままでした。キリストは彼に一番必要な癒し、魂の癒しを与えました。人間の第一の必要は魂の癒しです。
さてここで神を冒涜していると言ったパリサイ人は、教義的な間違いを犯しています。神への冒涜は代表して2つあります。一つは神の名前をむやみに使うこと、第2に異邦人の神へユダヤ人を導くことが冒涜といわれる行為です。英語でもJEXXSとかOH MY GXXと神の名前を冒涜する言葉を聞きます。これらはクリスチャンにとっては神の名を汚す行為で冒涜です。ユダヤ人の律法では「罪を赦すこと」は冒涜にはなりません。ここで律法学者たちは自分たちの律法の教義的間違いに気がついていません。
22節 ユダヤ人の一部の教師は、奇跡を起こすことでその人の教えが神のものであると立証をするグループがいました。キリストはそれらの教師の前で病気の彼を癒しました。人間の弱さは目に見えない奇跡よりも目に見える奇跡を優先することです。キリストは自分を人の子と表現し、自分が罪を赦す権威を持つことを示しました。しかしここでも彼は「人の子が罪を赦す権威があることを示すため」奇跡を起こしています。つまりあくまでも神が優先するのは人間の持つ罪の赦しであり、病気の癒しは永遠の命に比べれば一時的です。神は人間に必要な罪の赦しを優先するお方です。罪を赦す権威を持つのが神の子キリストです。それはキリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つようにという愛の現れです。
25節で半身不随の男は立ち上がり、歩いて神を賛美して帰って行きました。彼が生まれつきの身障者かどうか、論議をする人がいますが、生まれつき足の不自由な方は歩行訓練をしなければ普通に歩けません。この方が癒されたときにすぐに歩いたので、うんちくを言う人がいますが、神の奇跡を奇跡として受け入れることが信仰でしょう。なぜなら弟子らはイエスの名により使徒行伝3章と14章で生まれながらのあしなえを癒しています。神は2000年間変わることがありません。神に信頼するものは、決して失望することはありません。
最後に友人からのEメールを紹介して今日のメッセージを終わります。
アメリカで水曜日の聖書研究会で、牧師が主の声に聞き従うことを話しました。
その会に出席していた一人の若者が「今でも神が人に話しかけるのか?」と半信半疑でした。勉強会も終わり、仲間数人でコーヒーショップに行き、聖書の話に花が咲き楽しい交わり持ちました。帰りの車の中で若者は、「主よ今も語ることをされるなら、私にも語ってください。お言葉通りに従います」と祈りました。
メインストリートを過ぎる頃に、一つの思いが与えられました。コンビニでミルクを買うようにという思いです。そこで第1サムエルのように、神の声を聞くシーンを思い出しました。
「神よもしこの思いがあなたからでしたら、難しいテストのようには感じません。ミルクであればいつでも使えますから」といってミルクを買いました。すると7th通りで曲がるようにという思いが与えられました。7th通りを過ぎてもその思いが強まるので、
「解りました。主よ7thに行きますよ」と独り言を言って7thへ引き返しました。7th通りを走っていると、商業地域のコーナーで止まるようにという思いが与えられました。余り安全ではない場所であり、周りのお店も閉まっていたので躊躇しましたが、そのコーナーに止まりました。
神が「行ってかどにある家にそのミルクを届けるように」という思いが与えられました。
玄関に光りもなく、既に住人は寝ているようにもみえました。
若者は「主よ、これは何かの間違えでは?第一常識では考えられないこと」
しかしミルクをその家に届けるようにという思いは強くなるばかりです。
若者は勇気を出して玄関のベルを鳴らしました。
家から「誰だこんな遅くに?」若者がミルクを置いて立ち去ろうとする前にドアーが開きました。家の人はベットから起きてきたような格好をしています。
「いったいこんな時間に何のよう?」少し怒っているかのように住人が出てきました。
若者は勇気を振り絞って、ミルクを差し出しました。「これをお届けに来ました」
住人はミルクを受け取ると中に入って行き、そして入れ替わりに、ミルクを持って奥さんが現れキッチンの方へ歩いていきました。その後ろからさっきの男が赤ん坊をだいて出てきました。その男の目からはひとすじの涙が流れていました。
「実は仕事から一時解雇されて借金が貯まり、赤ん坊にやるミルクもなかったんだ。そこでいま神に祈ったんだ。どうかこの子にだけはひもじい思いをさせないでくれってねて、そしたらあんたがミルクを持って玄関に立っていたんだ」
キッチンの方から奥さんが「あんたひょっとしてエンジェルかい?」と声がしました。
若者は財布から持っている現金を全て彼にわたして家路につきました。彼の目にもあふれるものが止まりませんでした。
彼も神は祈りを聞かれる方であることを知ったからです。
神は21世紀の今も人に語り、祈りに答え、奇跡を起こし、病人を癒されます。この神は十字架に掛かり、私たちの罪をゆるし、3日目に蘇ったイエスキリストです。
キリストを信じる信仰で永遠の命が今日与えられます。キリストを主として救世主として信じることで、神との関係が回復されます。それはキリスト教の提示する真理は、神との関係を元に戻すことができる、唯一の方法だからです。今が信仰を持つその時です。
あなたも下記のように祈ることで、永遠の命が約束されます。
「在天の神様、イエスキリストを今日私の主として救世主として受け入れます。どうか神との関係が今日からできるように導いてください。イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン」
上の祈りをされた方は、教会の牧師にあなたの決心を知らせてください。みんなで喜んでもらえるように、そして天国では天使らがパーティーをあなたのためにしていることでしょう。あなたの人生に神の恵みがありますように、
One ,who puts his trust in Jesus, would not be disappointed. Jesus is with you always and loves you. Thank God for His grace. In Christ, all things are possible. Amen.
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