癒された人は誰か


本日の聖句マルコ2章
幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った

イントロダクション
 先月のメッセージでいままでのキリスト教の概念、クリスチャンの目的がキリストのようになる(Christlikeness)ではないと、爆弾発言をしましたが、あまりみなさんが驚いていないので逆にこちらが肩すかしを食らいました。そんなことは知っていたよという感じでした?神が私たちを造った目的は、キリストのように生きるのではなく、キリストを信じることで、創造主を覚え、その創造主のイメージで造られた自分を認識すること。つまり自分は自分にしかなれない。自分のキャラクターを認知することが必要と話しました。25年間信じていたことが、本当は違っていたことにわたしにとっては目から鱗でした。
 キリストを神として信じることで、私たちは自分という自己がより鮮明に見えてきます。
クリスチャンとなるときに罪の告白をするのはそのためです。心理学でも自己認識identityができると解決されてゆく問題があるそうです。99.8%の日本人のアイデンティティーは「自分はよい人」「世間は悪い」という2次元論で生きています。これがひっくり返るのがクリスチャンです。
 自分が罪人となり、悔い改めが必要と聖霊が働きます。今まで人のせいにしていた諸問題が実は自分の問題であることに気がつきます。クリスチャンとは自己の自覚と認識ができる人のことです。クリスチャン的覚醒が聖霊を通して行われるのです。自分を造られた神が持っている自分への目的がはっきりと見えてきます。自分は自分でいいという安心感も同時に与えられます。変わる必要がないことをしって安心します。変化は神から来るもので自分かできるものではないからです。
 他宗教では変わるために宗教行事を自分で行います。キリスト教で変化できるのは外の力(神)が働いたときです。つまり神と一致する自分があれば、変えられるという定義です。変わるのではなく変えられるのがクリスチャンの本来のあるべきすがたです。ではどのように変えられるのでしょうか?

マルコ2章 1-12節
 4人の友人は、キリストの元に連れて行けばいやされると信仰を持って体が麻痺した方を屋根からつりおろしました。
ここでは体に麻痺がある人を焦点としていません。4人の友人が連れてきたとあります。この4人の信仰を見てキリストはこの麻痺のある人をいやしておられます。癒されたことが問題ではないのです。キリストはだれでも癒すことができますから、それ自体が驚きではありません。では焦点はどこなるのでしょうか?

だれがこの麻痺した人なのか?が焦点です

 この麻痺した病を持った人は実は私たちのまわりにいるノンクリスチャンです。具体的には、経済的に困窮している人、人間関係で行き詰まっている人、子供の教育で悩んでいる人、夫婦関係で問題のある人、教会での問題に悩む人、自己認識のできていない人、まわりには社会生活から離脱、逃避している方(ニート)がいます。実際通常の社会生活のできない人がこの麻痺した人です。

 クリスチャンは信仰を持って、社会的、また霊的に麻痺した方を伝道するのが私たちの使命です。
ここで特筆するのは
体を癒された人は、罪を許されてキリストから離れていきました。癒されるまではキリストを信じていなかったでしょう。
 問題を抱えて教会に来ても、問題が解決されると去ってゆく方を現しているようです。今ある問題が解決されると、教会から離れる「御利益信仰」の一般的日本人の宗教への典型的な態度です。
 24年牧師をしているといろいろな方に出会います。今ある問題が解決されると信仰の必要がなくなりいなくなります。しかしまたなんらかの問題に遭遇すると教会に戻ってくるタイプです。

 宗教家達のリアクションも、キリストの神性を示すものとなっています。キリストは自分から自分は神であるといったことはありませんが、ここでも神にしかできないこと、「人の罪を許す」を行って、自分の神性の示しています。キリストはこの麻痺した人に最初「あなたの罪は許された」と語られました。
 律法学者達は「神以外に罪を許せるお方はない」 とこころでつぶやきます。キリストはそれをしって「罪を許すのと、麻痺した方を癒すのとどちらが難しいのか」と問いかけます。キリストはすかさず目に見える方法で体の麻痺された方を癒されました。

 宗教家の反応は、この方の癒しを喜ぶことなく、心がかたくなになっています。キリストを信じる信仰で清められるのであって、宗教行事への参加、宗教団体へ入会が、救われる条件ではありません。この麻痺された方が清められたのは、信仰によって清められているからです。人間は自分では何もできなくなったときに、初めて神の介入を求めます。英語では、I surrender all
 全てを神に委ねるときに救われます。委ねることができないうちにはキリストの神性が解りません。人間のプライドがじゃまをするからです。宗教家はプライドでキリストが見えなくなっていました。
 日本人は一般的に「私は大丈夫 キリストが私の神でなくても生きてゆける」とつぶやいています。

結論
 オレンジカウンティーの聖書研究で、クリスチャンで、進化論を信じる方がおられます。時々神学論争となりますが、クリスチャンと進化論は相違える2つの信仰です。そのかたは今まで日本で受けてきた教育がプライドとなっています。自分は知識人という隠れたプライドです。(その方には直接こうはいっていませんが)キリスト教の創造論を信じることは、それまで彼の受けた教育が間違っていたことを認めなければなりません。
「まず初めに神は天と地を創造した」「アダムとイブによって神が人類を造られた」は彼にとってはおとぎ話です。
 彼の真理は、150億年前にビッグバンで偶然宇宙がはじまり、40億年前に偶然地球ができ、その地球に人類は20万年前にサルから偶然進化して現れた。進化論も想像論も共通点があります。進化論は全て偶然によってできたという信仰、創造論はすべて神によって造られたという信仰です。そして進化論も宗教です。科学ではありません。150億年前の爆発の元となった物体はどこから来たのかの説明はできません。偶然そこにあったらしいのです。偶然あったという信仰が必要となります。キリスト教と同じ論理です。信仰によって成り立つ論理です。つまり創造の神を信じるか、すべては偶然でできたのか。証明できないことを信じるのは科学ではなく信仰です。

 律法学者も進化論者もキリストが目の前にいても神として認められていません。人間のプライドで高慢になっているからです。天を見るときに私たちは神を見ず、悔い改めて頭を垂れたときに、神が見えるようになります。あなたは天を見上げておられますか?頭をたれていますか?

コメント

  1. 読み返すと間違いが目につきますが、二次元論は二元論に訂正いたします。気が付きました?

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